雲切目薬とは?

 

以下は、参天製薬ひとみ会限定出版「大學目薬千一夜物語」からの抜粋です。これは、現当主17代笠原十兵衛の言葉です。

雲切目薬

発売は相当古く、天文12年(1543年)で、ポルトガル人から製造方法を伝授されたと聞いています。

発売から2年後、有名な川中島の合戦が起こりましたように、戦国時代ですから、医学は刀、槍、鉄砲などの外科治療の外科が必要でした。

これを「金瘡学」といいます。古来日本の医学に南蛮医学が加味され、傷薬として軟膏・硬膏が発達し、亜鉛華などを蜂蜜で練り、貝に入れて売っていた。

目薬も傷薬も当時は同じ成分だったのではないだろうか。

 

「雲切目薬」は元来傷薬だった

のではないでしょうか

 

昔は、店の前に川が流れていたので「河原先目薬」とも呼ばれ、川に沿って善光寺に詣でる善男善女が道々目薬を買い求め、大変評判でした。

また、地元では「十兵衛」という世襲名が目薬の代名詞にもなり、「十兵衛目薬」と呼ばれました。

別に「白練目薬」と呼ばれる目薬もあります。

戦後、貝がら入りからアルミ缶入りとなり、昭和35年以来液体目薬になり、カンフルなどを主成分としていました。

 

雲切目薬は目にしみる事で涙を出させ、その事によって治癒本能を引き出す点を主眼にしていましたから、「こんなにしみる目薬を売っていていいのか。」と薬務課に告げ口があるとか、「しみすぎる。」と云われたりしたと苦笑されています。

 

顧客は地元はもちろん、新潟、会津にも多く、又、最も多いのが岐阜県です。

この信州の地はトンネルが多いので、蒸気機関車の排煙や粉塵でよく目がやられる。

新潟など米所では稲穂による突き目が多かったなどで善光寺への参拝客がよく土産に買って帰りました。

大學目薬ほどではないが、沖縄を除くほとんど全国に売られ、明治時代から東京の福井商会、山崎帝国堂、大木合名会社、玉置薬業などに卸していました。

 昭和57年GMP施行により、面倒なので自家製造を辞めた。

勿体無いとその時は思ったがその後PL法の制定などもあって、今では辞めて良かったと思っています。

今は、佐賀製薬に製造を委託し、販売を継続している。

 

明治の市制施行以来「十兵衛さん」は代々市議会議員で議長を務められている。現在の十兵衛さんは、議員三代目で、創業十七代目。

また、善光寺の代々信徒総代でもある

 

 

 

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