考察:「生成文法NEO」

by ご近所のきよきよ


 
7月の随筆、「論文を読んで」で触れたのですが、どうしても生得的な言語プロトコルがあるとしか思えないようになりました。昔からの教えだと、それは生成文法だというののでした。前に、私は言語は特別なものでなくて、一般的な認知能力の一つの表れだと思うと主張しました。ただ、主張しながらですけども、虫は特別な音によるコミュニケーションを行うし、ミツバチだってダンスをするし、種固有の言語というものはあるなとは、考えていました。人間はたまたま、言葉だったりするのではないかと。テナガザルは歌によってコミュニケーションするそうです(「身体を持つ知能」 シュプリンガー・ジャパン)。
 
 
 文法のどういうところが物理的かといいますと、
・入れ子構造にすると拡張性が高い。
・一次元の記号シーケンスにしないといけない。
・記号化することが拡張性に必要である。
 
 基本的な認知能力としては、
・何が主要で、なにが補足的な記号なのかを決める事(名前、動き、属性、機能(動詞の格など))
・話者と聴取者との間のフォーカス一致のプロトコル(もっと一般に認知のプロトコル)
・パターン把握能力
・言語生成の基本的な熱意(コミュニケーションの熱意と言った方が正確かも)
 
 恣意的な所は、
・主要語、属性語、機能語の配置順序(前置、後置を決める事)
・言語系の精密さ
・言語生成の熱意
 
 物理的なもの、認知能力の基本は、DNAみたいに先祖から子孫まで連綿と伝えられていく認知機構の一部なのです。つまり、共同生活を行うためのプロトコルとして、個体に保持されるはずです。その中で、恣意的なものは文化のフィルターによって選ばれていくのではないか。基本的には、物理的にあり得るパターンは全て可能なのですが、文化によって、有用性が違う。発話の状況によっても違うわけです。
 
 言語系の木理の粗さにより生まれるオーバーロードによる曖昧性は、意味のバックアップで解決していくことになります。
 

おわり