エピソード
◆障害者参加に勇気づけられて
 昭和52年の50回記念大会に、交通事故で右足をなくした深沢さんが参加した。みごと完泳。この翌年から深沢さんの紹介で、大阪の身障者スポーツ仲間が10人ほど挑戦するようになった。中には全盲の人もおり、主催者はベテラン泳者を大勢、隊列の前後左右に配置し、ボートからの監視体制も強化した。 しかし、「そんなことは余計なお世話」とばかり、みな鮮やかな泳ぎぶりをみせた。速度もしっかり。隊列を離れる人ゼロ!関係者はすっかり感動した。「西原さんといったか、両足切断という障害を乗り越えて、10回完泳した。ただただ敬服以外の言葉が見つからなかった」と五明さん。

 80回を迎えた今年、人工透析をうけている高野忠三郎さん=写真=が8回目の完泳を果たした。

◆あの人は今?
「20代最後の思い出になりました。これからの人生の糧とします」。大会後数日して、"あの美人から”一通の手紙が届いた。

 本船も警護ボートも、いつも以上にマークをきつくしたのは「初参加者だから」という理由だけだけではなかったのではないか。(とにかく、キレイな人だったと当時の普及委員長が証言している)

 隊列のトップに近いところでスタートしたが、数百メートで遅れ始め、ずるずると後部へ見かねた警護ボートから、退水を呼びかけた。しかし、「挑戦」と申込書に書き込んできた彼女は「うん」といわない。

 そのうちに、泳ぎがあやしくなり、ボートからの声にも反応しなくなってしまった。それっとばかりに、こぎ寄る数隻。助けようとするが、体にぬった油が邪魔して「掴まえる」ことができない。やっと引っ張り上げ、看護婦の応急手当てで事なきをえた。

 国家試験の勉強に追われ。、時間ができたので野尻湖へ駆けつけた。到着は朝3時だったとのこと。「大変だったねぇ。良くがんばった」。今度は周囲が感心したり、励ましたりの一時となった。

 あの人は今、どうしているか。きっとがんばり屋のおかあさんとして、りっぱな家庭を築いているだろうね(町田元司)

◆御礼参りが迷子に

 この日、朝から濃い霧が湖面を覆い、「中止もやむなし」の声もある中、日中晴れの予報を誰かが仕入れてきて、結局は強行となった。しかし、霧は晴れるどころか、さらに濃くなるばかり。途中で止めにした場合200人の参加者をどうやって収容し、運ぶか。本船と本部の連絡は結局行ったり来たりの繰り返しで、それも参加者に不安の念を与えないようしなければならないので、やりにくいこと、このうえなしだった。弁天島(枇杷島)最短と思われるコースをたどって、なんとか全員無事ゴールした。

最後に弁天島、宇賀神社へ向かった御礼の舟が、方向を見失い、迷走を始めてしまった。ぼんやり見えてきた陸地にやれやれとばかり上がってみれば、「どうもここは古海じゃないか?」。

 岸伝いに藤屋旅館前の桟橋へ戻るのがやっとという、10数年前のできごとでした。