白鯨・Moby-Dick

一章 鯨組 

   六
捕鯨の歴史は、旧い。人類は、新石器時代には、もう鯨を捕っていたらしい。
日本でいえば、縄文時代にはすでに、鯨を捕獲して食べる、という行為をして
いたものと考えられる。縄文時代の遺跡から、鯨類の骨がかなり出土している
からである。 土佐の捕鯨のことでいえば、始まりがいつであるかという明確
な資料はないが、承平年間(九三一〜九三八)に成立した、源順が撰をした
『和名類聚抄』に、「我が幡多郡に鯨野郷と云へる所あり」と記されている。
この鯨野郷は、現在の地名で言えば伊佐のことであり、イサは、鯨のことを勇
魚と呼ぶことからもわかる通り、鯨の古名であるので、土州伊佐の地が、平安
時代から鯨と関わりの深かった場所であったということがわかるのである。

天正十九年(一五九一)、土佐の国主であった長曾我部元親が、浦戸湾で捕え
た鯨を、豊臣秀吉に献上したと『土佐物語』にはある。はっきりした記録では、
寛永初年(一六二四)に、津呂の庄屋多田五郎右衛門尉義平が、捕鯨船十三艘
を造って、突鯨の漁法を始めたといわれている。山見で発見した鯨に船を漕ぎ
寄せて、銛で突いてこれを仕留め、捕獲したのである。室戸岬の周辺を漁場と
してこの突鯨の漁が行われていた時、すでに鯨組は、津呂組と浮津組に分かれ
ており、このふたつの組が、争うようにして鯨を捕っていたのである。
網捕鯨が土州の地で始まったのは、天和元年(一六八一)に、多田吉左衛門、
浮津覚右衛門、水尻吉衛門の三人が紀州熊野の太地まで出かけ、その漁法を学
んできてからである。紀州から、羽刺十人、漁夫六十人が、多田吉左衛門たち
と共に土州へやってきて、網捕鯨の方法を伝えたのである。 この網捕鯨が、
窪津へ伝えられた。 土佐の西の地である窪津が、藩営の捕鯨場とされたのは
天和三年(一六八三)のことであった。

191120(水)

窪津へは、一年交代で、室戸から、津呂組、浮津組の鯨組がやってきて、漁を
した。捕鯨は、藩の許可制の事業であり、藩の認可を受けていない窪津の漁師
たちは、自らの手で鯨を捕ることはできなかった。鯨のことで地元の人間たち
ができるのは、他の土地からやってきた、津呂組、浮津組の手伝いだけである。
それだけではなく、鰹などについても、捕鯨の邪魔にならぬよう、窪津の地元
漁師にとってはかなり制限されたものになったのである。 それでも、この捕
鯨によって、窪津がある時期潤ったというのは事実である。 鯨組によって、
いったいどれだけの人数が窪津の地にやってきたかというのを示す資料がある。
まず、勢子船一艘につき、どれほどの人間が必要となるのか。

万次郎が生まれる三十二年前の「寛政七卯年年正月書・扇屋太三右衛門蔵」の
記載によれば―   羽刺、一人。船頭、一人。下櫓押し、二人。平水主、五
人。炊、一人。取付、二人。合わせて十二人である。これが十五艘だから、全
部で百八十人。 網船一艘で、八人。網船は十三艘あるので、合わせて百四人。
持双船が、一艘六人で、二艘合わせて十二人。これに、當本の番頭一人、手代
八人、納屋夫八人、筋師五人、市艇一艘の乗り手四人、 他に船大工、樽屋、
鍛冶、山見の者九人、魚切十一人や日雇いの者、津呂組、浮津組についている
商人が、それぞれ、八十九人と、六十八人いる。 これをすべて合わせれば、
四百数十人の人間が、鯨の時期には他の土地からやってきたことになる。
さらに、それぞれの職人になにかあった時のため、予備となる人員もいたであ
ろうし、この人数の者たちを相手に、他の土地から様々な商売を仕掛けてくる
者たちもいたことであろうから、その人数、五百人を越えていたであろうこと
は、想像に難くない。 明らかに、窪津の地元民の人口より多かった。

191121(木)

   七
浜は、ごったがえしていた。万次郎は、これだけの人間をいっぺんに見たこと
がない。 中浜村も、鰹のことでは栄えていたが、一度にこれほどの人数が浜
に溢れるということはなかった。 これは、祭りだ。 人混みの中から、万次
郎は鯨が解体されてゆくのを眺めている。 浅場まで持双船で運ばれてきた鯨
は、轆轤で海岸に引きあげられる。 浅瀬で背を出している鯨の尾に、縄が巻
きつけられ、縛られる。縄の端は轆轤に繋がっていて、その轆轤を何人もの人
間が回すことによって縄が巻きあげられ、鯨が陸に引きあげられてくるのであ
る。

二頭の鯨が引き上げられ、その場で解体作業が始まった。 解体は、何人もの
職人の手で、手早く行われる。解体に使われるのは、柄を含めて、長さが二尺
半から三尺はありそうな鯨庖丁である。それを両手に握って、鯨を切り分けて
ゆくのである。 まず、尾を切り離すところから始まって、順次、頭の方へと
移ってゆく。切り分けられた肉は、皮を下にして、台に乗せられ、これも轆轤
で引きあげられ、そこでさらに切り分けられる。骨以外、内臓から舌から脂か
ら、すべてが利用される。食用以外にも、鯨からとれた脂は、行燈や害虫の駆
除にも使われた。 鯨の髭も、文楽の人形に使われたり、からくり用の発条に
も使用されたりと、余すところがない。鯨の筋は、熨斗にも、利用されている
のである。万次郎の周囲は、騒がしい。 人の叫ぶ声や、話し声、笑い声で満
ちている。時に、喧騒に近い怒声も飛び交う。 その喧騒の中にいて、万次郎
は、まだ見たことのない土佐の城下や大坂の賑わいは、こんなものであろうか
と考えていた。

191122(金)

「どや、鯨はおもしろいかよ」 万次郎の後ろから、声がかかる。半九郎だ。
この人混みの中で、はぐれたと思っていたのだが、いつの間にか万次郎の後ろ
に立っていたのである。 「鯨はほんま、おもしろいのう」万次郎の声は、は
ずんでいる。「どうよ、おまん、鯨喰いたいろう」「喰えるかよ」「ああ、喰
えるさ」「ほんまか。喰いたい。喰いたい」万次郎は、さっきから、そのこと
を考えていたのである。 思わず笑みがこぼれた。「今、もろうてきちゃる」
半九郎は、ゆらゆらと人混みの中を歩きだした。見れば、いつどこで手に入れ
たのか、右手に、笊を持っている。よほど古いのであろう、編んだ竹の色が燻
んでいて、二ヶ所ほど破れたように穴が空いている。台の上で、鯨を切り分け
ている男たちの傍まで歩いてゆくと、「鯨の肉を、ちいとばあ、わけてくれん
か― 」半九郎は言った。「なんや、化け爺いやないがか」鯨を切り分けてい
る男が、手を止めることなく、半九郎に眼をやった。

「鯨の肉を、分けてくれんかのう」
男は、答えずに、自分の手元に眼をもどした。「どういてや、えいやいか。い
っぺんに二頭も捕れちょうに」 男は答えない。「ちょっとよ、ちょっとでか
まんに…」半九郎の声は、泣きそうになっている。「三頭捕れたって、十頭捕
れたって、おんしにやる鯨はないがよ」 「そんなこと言わんと、頼まあよ」
「犬にやる分はあっても、おんしにやる分はないわよ。そればあ鯨が喰いたか
ったら、独りで鯨を捕りに行きゃあえいろうが」 男はちらっとだけ、半九郎
に眼をやって、すぐにまた手元に視線をもどした。

191123(土)

「なあ、頼まあよ」半九郎が、頭を下げる。「ほんじゃけん、独りで鯨を捕り
に行きゃえいやろと言いよるろう」 男が言う。 そのやりとりは、全部万次
郎にも聞こえている。さすがに、万次郎も、半九郎が気の毒になって、男たち
に近づき、「そんなに、いじわるせんでもえいやいか。こればあ鯨の肉がある
がやけん」 そう言った。 鯨の肉を切り分けていた男の手が止まり、その眼
が万次郎を見た。「なんや、見かけんガキやが」「中浜から、鯨を見に来たが
よ」「そん中浜のガキが、どうしてこんな化け爺いとつるんじょらあや」「つ
るんじょうわけやない」「威勢のいいガキやが、言うちょくで。こんな爺いと
くっついちょったら、いずれ船漕ぎに使われて、海でおっ死ぬで。悪いことは
言わん。今のうちに手を切っちょくことや ― 」 ここで、半九郎が、手に
した笊を、男に向かって投げつけた。それが、男の顔にぶつかって、庖丁を持
った手があやまって、鯨の身を斜めに削いでいた。「おまん、いったい誰に向
かってものを言いよるがぞ。わしゃ、おまんが親父の褌の中にもおらんうちか
ら、鯨を捕りよったがぞ ― 」「うるさい。独り働きの銛突き爺いが。おい
ぼれやと思うて、おとなしゅうに話を聞いちょりようがやに。おとなしく消え
や。いつまでもやかましいこと言いよったら、これをくらわしちゃるど ―」

男は、持っていた庖丁を振りあげた。「なんや、そらあ」「やる気かあ」男は、
前に出てきて、包丁で、軽く宙を突いてきた。一瞬、半九郎が怯んだところへ、
男はいきなり腹を目がけて右足で蹴り込んできた。 その足が、半九郎の腹に
めり込んだ。「おげっ」と呻いて、半九郎は後ろへ飛ばされていた。

191124(日)

倒れぬように、半九郎は後ろへ向かって足を送ろうとしたのだが、足の速度が、
倒れる速度に追いつかなかった。鯨の血のこぼれた小砂利の上に、半九郎は仰
向けに倒れていた。「なにしよらあや」万次郎は、倒れた半九郎に駆け寄って、
男を睨んだ。異様であったのは、この騒ぎの中で、誰も男を止めないことだっ
た。遠巻きに半九郎を見てはいるが、声をかけてはこない。 老人が、包丁を
持った若い男に蹴りとばされ、仰向けに倒れたというのに、この場を収めよう
と声をかけてくる者は、誰もいなかった。「爺っちゃん、行こう」万次郎は、
半九郎の脇の下へ手を入れて、抱き起した。半九郎に肩を貸して立たせ、「歩
けるがか?」万次郎は言った。万次郎が歩き出すと、半九郎は、やっと自らも
足を運びだした。ふたりが進んでゆくと、人垣が割れた。「くそ、くそ…」万
次郎の顔の横で、半九郎の口がくやしそうな声をあげている。「あいつ、殺し
ちゃる。殺しちゃる…」そんな言葉をぶつぶつつぶやいている。 人混みを抜
けた時、そのつぶやきが、泣き声にかわっていた。

うえっ、 ひっく、うえっ、うええ… 
半九郎は、皴だらけの頬をびたびたに濡らし、顔を歪めて泣いていたのである。
「こらえてや、爺っちゃん」事情はわからないが、この老人のくやしさや哀し
みのようなものが、体温と共に、直に万次郎に伝わってきた。「くやしいのう、
くやしいのう」そう言っている万次郎の眼からも、涙がこぼれている。あれ?
なんで自分は泣いているのか。どうして涙がこぼれてくるのか。それが、万次
郎自身にも不思議だった。

191125(月)

「すまんのう、すまんのう…」半九郎は泣きながら謝っている。「謝らんでかま
ん。ひどいのはあっちの方やけん」「おまんに、鯨を喰わしちゃりたかったんじ
ゃが…」「もう、えいがね」「久しぶりに、わしとまっとうに口を利いてくれた
のがおまんじゃ。わしゃあ、嬉しゅうてのう。それで、おまんに鯨を…」「だい
じょうぶじゃ」「わしが、もう十年若かったら、あんな小僧は、この手で歯の二、
三本もたたき折っちゃるとこじゃが…」半九郎は、ここで少し咳込んだ。「爺っ
ちゃんは、幾つになるがか?」「八十と八つじゃ」

「ほー」と、万次郎は声をあげた。「おまんは幾つじゃ」「八つじゃ」「なんや。
わしゃ、また、十一か十二くらいかと思いよった」 ここで半九郎は足を止めた。
すでに、周囲に人の喧騒はない。村の者は、みんな二頭の鯨のまわりに集まって
いる。 山見の岬の下あたりであった。「もう、えい…」万次郎の身体を、向こ
うへ押しやろうとする。「どうしたがじゃ」「もう、ひとりで歩けるけん」万次
郎を押しやって、半九郎はひとりで立った。 さすがに、もう泣き止んでいる。
「行け、小僧 ― 」半九郎は言った。「中浜に帰れ。さっきの男も言いよった
やろ。わしなんかとつるみよったら、ろくなことないぞ ― 」半九郎は独りで
歩き出そうとして、よろけ、そこへ左膝を突いた。

191126(火)

「我は、そんなこと気にせんが ― 」万次郎は半九郎を助け起こそうとしたが、
半九郎はその手をはたいて、「えいわ。独りで起きらあよ」自分で立ち上がった。
「爺っちゃん。家はどこぜえ。送っちゃるけん ― 」「独りで、大丈夫や言い
ようろ」「なら、爺っちゃん家へ、遊びに行かしてくれんね。ほんならえいろう」
「わしの家にか ― 」「昔鯨捕りよったが。鯨の話を聞かしてくれ」「鯨の話
か…」「うん」万次郎は、真っ直に、どこにも逸れない視線を、半九郎に向けた。
「おかしな小僧やのう」「えいんか」「ついて来いや」老人は言った。

   八

海を見下ろす丘の途中に、粗末な小屋があった。海に向かう斜面の樹は、ほとん
ど切りはらわれていて、斜面の始まる際に、椿の老樹が二本生えているだけだ。
海がよく見える。背後は、椿と椎の森だ。板を葺いた屋根の上に、椿の花を付け
た枝が被さっている。小屋は、粗末で小さかった。大工が作ったものではなく、
自分で建てたもののようであった。入口らしきものがあって、そこに戸はなく、
上から菰がぶら下がっているだけだ。その菰をあげて、「入れ…」そう言って、
半九郎から先に中へ入っていった。入ったところは、三畳ほどの板の間だった。
土間に、水瓶らしきものがあって、その口は板で塞がれていた。 その板の上に
柄杓が置いてある。

191127(水)

壁は、木の枝か竹を芯にしたものに、土を塗ったものだ。 土はあちこちではが
れ落ちていて、隙間風も入りそうだった。板の間の中央よりやや横にずらして、
二尺四方の囲炉裏が切ってある。隅に、筵が二枚、重ねて置かれていて、その上
に藁が積まれている。 半九郎、どうやら夜着など持ってはおらず、夜はこの藁
の中に潜って眠っているのであろう。囲炉裏には、自在鉤などはなく、梁から、
木の枝が囲炉裏の上へぶら下げられているだけだ。その枝からさらに分かれた枝
の根元から二、三寸のところをはらってあるので、その短く切られた枝に、鍋な
どをぶら下げるのであろう。 土間の、石を組んだ竈の上には、釜が載っている。
竈の横に木の台があって、そこに、皿と木の椀がひとつずつ、刃の欠けた庖丁、
木の柄杓などが載っている。

土間の、竈に近い壁際に薪にするための板や、枯れ枝、流木などが積まれている。
貧しい暮らしぶりが、ひと目でわかる家であった。しかも、独り暮らしのようで
ある。「あがれ」半九郎が、そう言って、先に板の間にあがった。万次郎が、続
いてあがる。囲炉裏の奥に、半九郎が腰を下ろした。「座れ」 言われるままに、
万次郎も板の上に尻を落として、囲炉裏の前に座した。 ちょうど、万次郎から
見て左側の囲炉裏の縁に、半九郎が座している。 半九郎の前の囲炉裏の縁に、
口の欠けた湯呑み茶碗が置いてあった。 囲炉裏からは、まだ、熱気が伝わって
くるところをみると、灰の下に燠火が残っているらしい。囲炉裏に近い壁が、窓
になっていて、そこが開いていた。 上側を止めている窓の板を、下から外側へ
押し開き、つっかい棒をして、閉じないようにしてある。

191128(木)

「しかし、残念やったのう…」半九郎が、灰の中に刺してあった火箸を手に取り
ながら言った。 半九郎の、胡坐をかいた両膝と脛が剥き出しになっている。骨
ばった脚だった。同様に胡坐をかいた万次郎の脛も剥き出しになっているが、万
次郎の脚の方が、子供ながらに逞しい。 「何がや」万次郎が言う。「おまんに、
鯨を喰わせられんかったことよ」 半九郎が、火箸の先で、灰の中の燠を掘り起
こしはじめた。灰の中から、赤く焼けた炭が、ころころと出てきた。 半九郎は、
その燠を火箸の先でつまんでは中央に寄せてゆく。 火がないと、寒いというほ
どではないが、囲炉裏に火の色があれば心が落ち着く。「心配いらなあよ」「何
のことや?」「さっき、だいじょうぶや言うたやろう」″さっき≠ニいうのは、
万次郎の肩をかりて、半九郎がよろばいながら歩き始めた時のことだ。″おまん
に鯨を…≠ニ半九郎が言った時、″だいじょうぶじゃ≠ニ、万次郎が答えている。
その時のことを、万次郎は言っているらしい。「見いや」

万次郎は懐に手を入れて、そこから、竹の皮に包まれたものと、赤い塊を取り出
して、それを囲炉裏の縁を囲んでいる木の上へ置いた。「へへ ― 」万次郎は、
半九郎を見やって、自慢そうに笑ってみせた。囲炉裏の縁に置かれた赤いもの―
 それは、大人の拳大ほどの肉であった。「なんぜえ、これは?」「鯨の肉や」
万次郎は言った。

191129(金)

「それは、わかっちょう」 半九郎は、万次郎を見た。 「これを、どうしたん
が?」「あの、鯨を切っちょう奴が、爺っちゃんに笊ぶつけられて、手元を狂わ
せて切りそこねたんや。その塊りが台の端に転がってきたんでな」「くすねたん
か」「違うわい。もろうてきたがよ」「はしこいガキやな」 半九郎がようやく
笑った。笑いながら、半九郎は立ち上がっている。立ち上がる時に、置いてあった
鯨の肉を掴んでいる。 「何するがぞ」「鯨を喰わしちゃるがよ」 土間に下り、
台に置いてあった俎板の上に、鯨肉と庖丁を載せて、外へ出た。万次郎も立ち上
がり、「どこいくがよ」 半九郎の後を追った。 半九郎が、家の横手へ回り込
んでゆくと、そこに、ひと抱えありそうな桶が置いてあった。

裏の山の中から、節を抜いた竹を割って、それをつないだ懸樋の口がその上に突
き出ていて、そこからわずかずつながら水が桶の中にこぼれ落ちている。桶の縁
に近いところに、柄杓の柄が渡してあった。「この桶は、もともとは、鯨を捕る
網に縛りつけちょった樽じゃ ― 」言いながら、半九郎は、樽の縁から縁へ渡
すようにして俎板を置いた。 柄杓で水を汲んで、まず手を洗い、俎板を洗って、
鯨の肉を洗った。板と鯨の肉の水を十分切ってから、半九郎は庖丁を握った。鯨
の肉に庖丁をあて、刺身でも作るように、それを薄く切ってゆく。「小僧、生姜
じゃ」「生姜?」「その辺に生えちょうじゃろ。それを適当に引っこ抜いてきた
らえい」「わかった」生姜は、すぐに見つかった。

191130(土)

「家ん中に、おろし金があるけん。、生姜を洗うたら、それでたっぷり擦りおろ
しちょけ」 柄杓で水を汲み、抜いてきたばかりの生姜に水をかけて、泥を落と
した。 家の中に入って、おろし金で生姜を擦りおろしていると、俎板の上に、
切ったばかりの鯨の肉を載せて、半九郎がもどってきた。「この肉の上へ、擦っ
た生姜を載せるがよ」「どればあ?」「全部じゃ」言われた通り、おろし金の上
の生姜を、全部鯨の肉の上へ載せた。「醤油じゃ」「醤油?」「そこじゃ」半九
郎が顎をしゃくる。台の隅に、一合徳利が置いてあった。これか ―

万次郎がその徳利を手に取ると、「かけい」半九郎が、両手に持った俎板を突き
出してきた。万次郎が、鯨の上で徳利を傾けると、醤油があふれ出てきた。「た
っぷりとじゃ」言われたように、たっぷりかけてやった。「それぐらいでえい」
肉から俎板の上へこぼれた醤油が、外へ流れ落ちそうになる。「中へ運んじょく
んや」 万次郎が、醤油がこぼれ落ちぬよう鯨肉の載った俎板を運んで、囲炉裏
の角のところへ上手に置いた。「座れ」後ろから声がした。どこから持ってきた
のか、右手に一升徳利と、左手に湯呑み茶碗をふたつ持っている。 半九郎が、
まず座して、一升徳利とふたつの湯呑み茶碗を、囲炉裏の縁に置いた。湯呑み茶
碗のひとつは自分の前に、もうひとつは、万次郎の前に。 半九郎は、まず、自
分の湯呑みになみなみとと注いでから、次に万次郎の湯呑みに酒を注いだ。

191201(日)

「米は切らしても、酒を切らしたことはないがよ」 半九郎は徳利を床に置き、
「飲め」そう言って、自分の前に置いた、酒の注がれた湯呑みを手にとった。
「酒をかや」万次郎は、左手に持った湯呑みを見つめている。「そうや」半九郎
は、左手に持った湯呑みを、持ちあげる途中で止めたまま、万次郎を見つめてい
る。「どうした、酒ははじめてか?」「初めてやない」「ほう」「親父が飲みよ
るのを、こっそり飲んだことがある」「どうやったぞ」「あんまり、うまいとは
思わんかった」一年ほど前だ。父の悦助が、毎日のように酒を飲んでいるのを見
て、「酒いうのは、うまいがか?」訊ねたことがある。「子供が知らんでもいい
味や」悦助には、そうはぐらかされた。それで、ある時、こっそり、家の者に隠
れて悦助の酒を飲んだのだ。 はじめは、匂いを嗅ぎ、おそるおそる、少し、次
には、ひと口をいっきに。 噎せた。口の中と喉と腹が、かっ、と熱くなった。

匂いや、悦助がうまそうに飲むのを見て、甘いものだろうと期待していたのだが、
どうにも表現しようのない味が口中に広がって―
”これは、うまいもんやない ―”
酒については、それで見切ったつもりになっていた。その酒を、今、半九郎から
飲めと言われているのである。「小僧、酒はねや、うまい、まずいで飲むもんや
ないだぜ」半九郎は言った。

191202(月)

「ほんなら、何故飲むがぜ」万次郎が訊く。「色々よ」「色々って何や」「文句
言わんで飲め。飲んだら、わかる」 難しい理屈を並べずに飲め ―
これは、土佐という国においては、どの地方であれ、最後通牒に等しい。それは、
子供ながら、万次郎の骨にまで染み込んだ考え方である。「飲むがよ」湯呑みを
持って、一息に飲んだ。息を止め、水を飲むように、喉を鳴らして飲んだ。

喉が乾いていたせいか、あっという間に、酒は腹におさまった。そう言えば、中
浜から窪津へ出る間に、竹筒の水をひと口飲んだだけで、ずっと水分をとってい
なかった。 うまかった。 水としてうまかったのか、酒だからうまかったのか、
それは万次郎にもわからない。 ふう、と息を吐いて、湯呑みを囲炉裏の縁にも
どした。その後、火のような温度を持ったものが、喉、食道、胃と、ゆっくり下
がってゆくのがわかる。「ほう…」半九郎は、皴のような眼をさらに細め、「た
いしたもんや」自分の湯呑みの酒を、これも一息に干した。「あとは手酌や」言
いながら、半九郎は、もう一升徳利を手にして、自分の空になった湯呑みに、酒
を注ぎ入れている。手酌も何も、最初から、徳利に手を触れているのは、半九郎
だけである。「鯨じゃ、喰え」半九郎が言った。言い終わらぬうちに、半九郎は
徳利を置いて、右手を俎板の上に伸ばし、鯨肉を二、三枚つまんでいる。半九郎
の、赤い舌が、べろりと伸びた。

191203(火)

「箸らあいらん、手で喰え」そう言って、生き物のようなその赤い舌の上に、半
九郎が鯨の肉を載せた。肉を載せたまま、舌が口に引っ込む。半九郎の顎が上下
に動く。万次郎は、右手を伸ばして、たっぷり生姜が載って、醤油をまぶされた
鯨肉を、枚数も考えずにつまみとって、口の中に放り込んだ。 肉は、柔らかい。
噛めば歯が潜る。 潜るが、妙な弾力があって、すぐには噛み切れない。噛むう
ちに、鯨の血の味、匂いが口の中に広がった。 それが、たっぷりかけられた醤
油と生姜の味とからまって、うまい。「うまいがよ」万次郎は言った。

「こんなにうまい鯨は初めてや」 これまで、何度か鯨を食べたことはあったが、
こんなに鯨をうまいと思ったのは初めてであった。 万次郎の腹の中には、すで
に、ぽうっと火が点っている。その火の熱が、ゆっくりと体の中に広がってゆく。
もう一度つまみ、食べる。「おまんがくすねた鯨じゃ、好きなあばあ喰うたらえ
い」「くすねたがやないがぜ。もろうた鯨じゃ言うちょろうが― 」 万次郎は、
少し饒舌になっている。 万次郎は、竹の皮を開いて、中の握り飯を出して、三
度目につまんだ鯨をその握り飯の上に載せてかぶりついた。 昼はとっくに過ぎ
ていた。しかし、中浜を出てから、万次郎は一度も握り飯に手をつけていなかっ
たのである。「爺っちゃん、握り飯、ひとつどうぜ」「いらん」「えいのか」
「酒が米のかわりや。あとは、鯨の肉があったらばえい」半九郎は、もう、三杯
目を自分の湯呑みに注いでいる。

191204 (水)

「爺っちゃんよ」万次郎は、指についた飯粒を歯と舌でこそぎ落としながら言っ
た。「なんぜ」「おれも、鯨捕りになれるがか?」問われた半九郎は、口から離
したばかりの湯呑みを宙で止め、少し間を置いてから、「ま、無理やな」そう言
った。「どうしてや。何故、なれんがか」「鯨捕るがは、鯨組に入らんといかん
のじゃ。鯨組は、室戸の、津呂組と浮津組しかない。どっちにしたって、入れる
のは室戸の者だけや。窪津の者が、ましてや中浜の者が入ることはできん― 」
「そらおかしいわよ。同じ土佐者で、どうして入れんのじゃ」「藩のエラい者が、
そう決めたけんよ」「爺っちゃんはどうながぜ。爺っちゃんは窪津の者じゃない
がかよ」「わしゃ、こっちの者じゃないがよ」もともとは室戸の者や。津呂組で、
白船の羽刺をしよったがぞ―」「白船の羽刺かよ」万次郎はびっくりした。さっ
き、海で鯨の網取りを見ながら、鯨組で一番エラいのは羽刺で、羽刺しの中でも
一番エラいのが、白船の羽刺であると、半九郎から聞かされたばかりだったから
だ。

「ほんなら、爺っちゃんは室戸の者ちゅうことにながか― 」「そうじゃ」「け
ど、爺っちゃんが今しゃべりゅうは、こっちの幡多の言葉じゃ」「こっちは、長
いけんのう。 住みついてからは、三十年以上や」「どうして、こっちに住みつ
いたがよ」「おまんが知らんでえいこっちゃ」半九郎は、途中で止めていた湯飲
みを、再び口まで持ってゆき、中の酒をひと息に干した。空になった湯呑みを置
き、また、それに酒を注ぐ。「鯨組にはいりたかったらよ、室戸の嬶あをもろう
たらえい― いや、室戸の、鯨組の家に婿養子に入って、そっから修業をして、
鯨捕りになるしかないがよ」

191205 (木)

「ややこしい話やなあ」嬶あをどうするの、婿養子がどうだのと、八歳の万次郎
には遠い話であった。 「万次郎、おまんに男の兄弟はおるか?」「兄やんがひ
とりじゃ」「ほんなら、次男坊か」「そうよ」「それやったら、いずれ、家をで
るがやな」「ふうん…」万次郎はうなずき、また鯨の肉をほおばって、握り飯を
囓った。 爺っちゃんよ」飯を噛みながら、万次郎が言う。「なんぜえ」「爺っ
ちゃんは、なんで化け鯨らあいうて呼ばれてようがか」「知らん」「さっき、自
分で言いよったがね。他の者も、化け鯨ち言いよったが ― 」「知らんわよ」
「なら、鯨の話ならえいじゃろう。なあ、鯨を突くいうんは、どげな気持ちにな
らあよ ― 」「さあな」「羽刺やったんじゃろが。どうぜ。心臓がどきどきす
るやろか ― 」「そや」「それだけかや」「心臓が、口から飛び出そうになる。
口ん中がからからに乾いてねや、息もできんようになる」「それから?」「なん
せ、相手がでっかいけんのう。こっちの魂のありったけを使うても、まだ足りん
のよ―」「ほれで?」「足が震える。目玉がころげ落ちそうになる…」
「くわあ!」

万次郎は声をあげる。 身体の中が熱い。 それを醒まそうとして、湯呑みに酒
を注いで、水がわりにまた飲んだ。

191206 (金)

「最後には、狂うけん」半九郎は言った。「狂う!」「狂って、自分がどっかに
おらんなって、自分が別の者になる。「別の者!?」「ああ。神サマだかなんだ
かわからんが、自分以外のまったく違う自分になってな。その狂った先のところ
で、急に、何かが静かになるがよ」「静かに?」「そうよ。自分が澄んで、身体
が透明になって、なんやら真っ赤なもんが、自分の臍の中心でぎらぎら光っちょ
う」「ほいで!?」「世界が半分ずつになっちょう。半分は自分で、半分は鯨じ
ゃ。ようするに、鯨と自分を合わせて、ひとつの世界ということや」「ふええ!」

「そん時に叫びよるんじゃ。獣みたいな声でよ。内臓を、みんな吐き出すような
声でよ。叫んだ時には、もう、銛が手を離れちょう…」「凄いのう」万次郎は唸
った。 半九郎の言っていることは、ほとんどわからなかったが、何かとてつも
なく凄いことを口にしているのだということはわかった。「凄いのう」「凄いの
う」身体が煮えているようだった。 身体の中心に火があって、肉が、内側から、
その火で炙られているようであった。万次郎は酔っている。 しかし、自分が酔
っているということが、万次郎にはわからない。「さっきの、好かん男は、爺っ
ちゃんのことを、独り働きの羽刺や言いよったがぜ」「言わせちょったらえい」
半九郎が、ぐいと酒を飲む。 半九郎もまた、酔っている。もともと酒が入って
いたところへ、ここに来てからは、万次郎の四倍はすでに飲んでいるのである。

191207 (土)

「大体、網取りらあいうのは、卑怯者のやり方や」「どうして卑怯者ながよ。
爺っちゃんやち、さっき、みんなが鯨捕りようのを悦んで見よったやないか―」
”いけっ、いけえっ!!” ”二番銛いけっ、三番銛いけっ” 自分の横に並んだ
半九郎が、そう叫んでいるのを、万次郎は確かに耳にしている。 少なくとも、
彼らは命を懸けて鯨を捕っているのだ。それが、どうして卑怯なのか。「あん
時は、あん時や」半九郎は酒を呷って、湯呑みを囲炉裏の縁に置いた。「子供
と違うての、大人の心はいつもひとつのもんでできあがっとるわけやない。い
ずれにしろ、鯨を捕るゆうんは命がけや。ほんじゃけん、鯨を捕るゆうのを見
ると、興奮してしまうがよ」「卑怯者の説明をしとらんぜよ、爺っちゃんよ」
「小僧、さっきおまんが見た網取り法はな、昔からやってきた鯨の捕り方やな
い」「へえ」「昔は、みんな、突き取りやった」「突き取り?」「網らあに追
い込まんと、鯨を追って、船で近づき、羽刺が銛で突いて鯨を捕るがぞ」「そ
れでも、船は何艘も出るがじゃろ?」「そや」 「それは、卑怯やないのか」
「それも、卑怯や」「どうすれば、卑怯やないろうか」「独りや」
「独りって?」「四丁櫓の船一艘で、羽刺独りで、鯨を突く」「他にはおらん
がか」「他には、漕ぎ手が四人、縄使いの者がひとり― それに羽刺が独り。
六人で鯨と闘うがよ―」

「そんなんが、できるんか」「できる」半九郎は、空になった湯呑みに、また、
酒を注ぎ入れる。「そんなん、やったやつがおるんか」「おる」きっぱりと半
九郎はうなずいた。

191208 (日)

「どこにおらあよ」万次郎が問うと、半九郎は一升徳利を置いて、湯呑みを持
ち、「ここや」そう言って酒を呷った。「おれや。この化け鯨の半九郎が、こ
の世でただ一人の羽刺やった」「爺っちゃんが!?」「そや」「捕ったんか。
爺っちゃんは、独りで鯨を捕ったんか」「三頭や!」「三頭!!」「三十年以
上も前のことやけん」半九郎は、湯呑みを、また囲炉裏の縁に置いた。まだ、
半分、酒が残っている。「それで、独り羽刺はやめたんか」「ああ、やめた」
「いつ?」「三十年前じゃ。わしが五十八の時じゃ― 」「どうして、やめた
がよ」万次郎が言うと、ふいに、半九郎の饒舌が止んだ。 その目が、囲炉裏
の燠を見つめている。

細い皴の奥にある眸に、燠の火が映って、ほつんと赤く光っている。「出合っ
てしもうたんじゃ…」ぽそりと半九郎は言った。「何にじゃ」万次郎が問うと、
また、半九郎はおし黙った。 声をかけられない。 万次郎が見つめていると、
「化け鯨じゃ…」半九郎が、誰にともなくつぶやいた。 さっき、万次郎が訊
ねた時、”知らんがよ”と言っていた”化け鯨”について、半九郎は自ら口にして
いた。「化け鯨って?」「この世のもんとは思えんばあ、でかい鯨や…」燠を
見つめながら、半九郎は言った。

191210 (火)

半九郎の眸の奥に、燠の火の色とは違う、針先のように尖った光が点っていた。
「ただの大きさやない。そこらの鯨なんぞひと呑みにされるばあ、でかい鯨よ
…」半九郎は、右手を伸ばして、まだ酒が半分入っている湯呑みを手にとった。
それを、口に向かって持ちあげてゆく途中で、いったん止めた。「その化け鯨
に出合うてよ。このわしのなんもかんもが狂うてしもうたんや…」  ごくり、
ごくり、 と、半次郎が、湯呑みの酒をゆっくりと飲む。「ふう…」酒を乾し
て、息を吐いた。その眼がすわっている。酔っているのか、酔いが醒めてしま
ったのか。万次郎はわからない。 半九郎の眼は、虚空を見つめている。空に
なった湯呑みは、下ろしかけたその途中で止まってしまっている。 「誰も、
わしの言うことを信用せん…」ぽつりと、半九郎がつぶやく。「そんな、化け
鯨がおってたまるかと誰もが言うのじゃ。自分の身を守るために、このわしが
嘘をついちょうと…」半九郎は、小さく、首を左右に振った。「わしは、嘘な
んぞついちょらん。あの化け鯨は本当におるがぞ。このわしが、このふたつの
目ん玉でちゃんと見ちょうが。忘れるものか。 この三十年、ただの一度も、
あいつのことは忘れたことがない。忘れてたまるか。 わしゃあ、忘れんぞ。
いつか死んでこの身体がのうなっても、忘れてたまるかよ…」半九郎は、顔を
あげ、「なあ…」幽鬼のような顔で、万次郎を見た。何かに憑かれたような眼
だった。

湯呑みを置き、「話しちゃるわい。三十年前、何があったかを。あの、化け鯨
 ― 白い、この世のものとも思えんような、真っ白な鯨のことをよ…」

191211 (水)

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最終更新日2019年12月13日