絵の具模様

  日本本土の4隅。東西南北 行ける所まで、



北の空に向かい  「北海道 宗谷岬」

   1992年8月1日  「始まりは、いつも雨」
  北海道ツーリング、どこまで走っても風景が変わらない、雨のち曇りの時よりの晴れ間に、
  巨大な大地に、ゆっくりとした雲の流れを感じた。

   北海道は、とにかくスケールが大きい。自己の「あまえ」は、広大な自然
  の中にでは、ほんの小さな雑草にも満たない。むしろ、この地に生息する原生植物のほうが力強く感じた。
  なぜ、悪天候の日に、日本最北端にバイクを走らせたか、今考えてみると、広大な果てしなく続く大地のなかで
  「これ以上の、日本で陸続きは無い」その地点までたどりつきたいという気持ちだけだった。
   しかし、この地点が日本全国の陸続きを走る「旅の始まり」になりました。
   宗谷岬に、日本最北端の碑があり、最北端をめざすひとにとって目的地のゴールでもあり、到着すると、
  マラソンの折り返し地点のような感覚にもなる。
   北海道ツーリングで、グループツーリングで来て、ソロツーリングになり、一人になったら、
  なぜか、北の果てをめざす。
  そして、ソロツーリング同士のライダーがここに集まり、折り返しの旅をする。反省の言葉として、
  「最初は○人で、北海道に来て、今はソロツーリングになってしまった。・・」と友人を大事にしようと。

                話がもりあがるのであった。そんな宗谷岬。





南国の天然色 「鹿児島県 佐多岬」

  1994年5月7日 「帰り道は遠かった。」
 ゴールデンウィークも終わり、5月6日、開通して間もない長野自動車道、須坂・長野東インターから、中央自動車道
 名神高速道そして、神戸港に着き、神戸港から、カーフェリーにて翌日、宮崎県日向港、静かな海岸線を走り佐多岬ロードパーク
 についた。
  長野から鹿児島まで陸路で走ったら、1600Km以上はあり、神戸港から寝ている間に、九州についた。

 宮崎県の海岸線を走っていて、「24時間前は長野にいたんだなーと、・・・」あっけなく九州に・・実感・・
  道路の並木も南国独特のソテツやヤシの木ので、よりタイムスリップしてしまった感覚が高まったのであった。
  佐多岬ロードパークは、亜熱帯植物園もあり、連休の後でとても静かであった。
  日本本土の最南端、あっけなくついてしまったと言う感じでした。

  ロードパークで九州を旅していたライダーたちとキャンプ
 をして、天気も快晴、あと4日休みがあると、鹿児島から、中国・北陸経由で、長野まで陸路で帰った。
 感想は、「帰り道は遠かった、来た時よりも遠かった。・・・」でも楽しかった。天気も大変良くて。
  佐多岬は北緯31度より南で、亜熱帯ムードがただよい。原色豊かな、花が咲く。
 北海道の北緯45度の亜寒帯の気候とは違う、帰えりの道のりが長かっただけに、日本は広いと感じました。


最初に太陽に逢える半島 「北海道根室半島」

  1994年8月1日 「草原の輝き」
 仕事が終わってから、深夜に直江津港より、室蘭港行きのフェリーで、2年ぶりに北海道に上陸、
 さっそく、室蘭での「雨の歓迎」を受けて、ネットにつけていた「てるてる坊主」も効果がなかった。
  2年前は、雨の中、今年も雨かと、空冷エンジンも雨の中では水冷になるからいいさと・・
 この時の休みの日程は、8日間、前後はフェリーの中で泊まるので正味6日の旅、しかし直江津の
 東日本フェリーは、深夜に出航してくれるので、時間が有効に使える。
  前回走ってばかりいたので、今年は、温泉と釣りとグルメと、コースを綿密にした。
 またしても「始まりは雨」となりました、しかし2日後には快晴になり、キャンプで早朝に、
 霧と雲海の幻想な景色で、草原も「朝つゆ」で輝いていました。
  根室半島も例外ではなく、牧草地と、原生花園を眺めながら快適にツーリングしました。
 また、ライダーハウスで早起きしたので、本土最東端の売店で、カニの鉄砲汁サービスしてもらいました。
  また根室で、「昆布入りしょうゆ」を調達、キャンプに重宝しました。
  現在、日本で、最初に朝日が見える場所、根室半島
 


 西風と梅雨前線 「長崎県平戸島・生月島」

 1995年7月1日・2日 「海の架け橋・心の旅」

  92年4月から乗り出したSRX400も25000Km、通勤で毎日使い、休日にツーリングと、酷使?
 履き替えたタイヤ3本、通勤快速もいたわりの走行。
  大型二輪限定解除ができても、なぜか手放せない。まだ本土最西端にいってないから、
  また、このバイクで行ってない所は、四国で、楽しみを残していた。SRX最後のツーリングは、
 長野自動車道から中央自動車道、名神そして大阪泉大津港から、フェリーで北九州の新門司港
 福岡・佐賀・長崎と西の果てまで行き、帰りは、大分経由、四国・岡山と、沖縄県は無理としても
 自宅から、橋やトンネルで陸続きとなっている都道府県全てに、SRX400で旅をすることができる
 計画をたて、6月30日旅立ちました。
  晴天に恵まれて、フェリーの中では、星空と瀬戸大橋を下から見上げながら、ビールがうまいと
 快適な旅の始まり、7月1日に新門司港、そして、平戸島の橋を渡り、橋や陸続きでいけるところを、
 めざし志々岐につきました。
  志々岐港の灯台にて、引き潮の時で西側に、まだ歩いていける。人工のモニメントは灯台の他
 にもありました。しかしあえてそのモニメントの前での記念撮影はしなかった。
  ただ単に、一旅人である私が、自己満足のために、記念撮影はもっての他、モニメントに置かれた
 花束に、海での安全を願う地元の人の気持ちが伝わり。ここまで無事に到着したことを感謝しました。
  地図にない橋 
  到着証明のことを、平戸島のおみやげ店で聞いたところ、「よくその質問は受けるけど、隣の生月島に
 ある」と言われ、平戸島から生月島に橋がかかっていることを知った。私の地図にはその橋はなく
 当時、開通まもなくの橋ということがわかった。また島の人は親切で、キャンプ場などいろいろな見学場所
 を教えてくれました。また明日から天候が崩れるとも教えてもらいました。
  生月島は、明日とその日は、平戸島のキャンプ場に泊まりました。
 

 




  生月島 オオバエ灯台
 前日の晴天から、大雨。それもそのはず、95年7月2日から一周間近く大雨になった梅雨前線との
出会いである。ここを起点に、梅雨前線と競争しながら長野に帰った。梅雨前線は驚異的な大雨を
落としながら、時速、30−40Km/hの速さで列島をのみこんでいくのであった。
 梅雨前線を追い抜くと、晴天。追い抜かれると大雨。対象的な天気であった。
 オオバエ灯台で、出会った雨、何故か生暖かく、大粒の雨、その時には、梅雨前線とは判らなかった。




絵筆おみやげコーナ
絵筆梅雨前線の中の旅

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