アマチュア局開設まで


  アマチュア無線の存在は先輩がCQ誌をとっていたこともあり、中学1年位から憧れの対象でした。SSBがやっと実用期に入った頃で、通称「ゴリラ」トリオの300ラインが広告されていたころでした。「ハム男とハム子のハム日記」だったと思いますが、濃いブルーの小冊子を手に入れ(たぶんCQ誌の付録だったと思うのですが、その後紛失してしまいました。どなたかお持ちのOMさんが居られたら是非コピーさせて頂きたいと思います。)アマチュア無線家になった自分を夢想したものでした。

  中学3年になると寮の庭に鯉のぼり用の竹竿を使って20m長の逆Lアンテナを張り、SWLの真似事を始めました。受信機は技術家庭科のO先生からお借りした当時のキットメーカー「リンカーン」の旧型2バンド5球スーパーでした。(3.5MCが受信範囲に入っていたので無理を言って貸していただいたのでした。O先生には授業以外に「電気」を色々教えて頂きました。期末テストで80点以上取ったといってパワートランスを戴いたり・・)当時のローカル局は3.5MCでのんびりラグチューを楽しんでいた時代でした。私もログを取り始め、一方的ながらお馴染みのコールサインが増えていきました・

 
 1年も経つと5球スーパーに我慢ができず、(SSBも段々増えてきていました。)親に無理を言って(株)スターの通信型受信機SR−550(tnx ラジオ工房)を買って貰いました。価格は2万5千円位だったと思います。1.8〜54MCの第一局発可変のダブルスーパーで、BFO可変タイプながらプロダクト検波回路も付いておりSSBも綺麗に受信できました。この頃からトリオが50MCのトランシーバ「TR−1000」(tnx JA3XOG OM)を発売したこともあり、ローカルラグチューが3.5MCから50MCに移行されつつある時期でした。私も早速50MC用のFDアンテナを張り追随することができました。もちろんHFでJA全国のSWLも始めました。少ない小遣いから会費を捻出してJARLの準員となり、JAФ−1777の準員ナンバーを貰ってSWLカードを作り、全国にレポートをばらまき出しました。初ラのSWLレポート欄にレポートを送り、掲載紙を戴いたりしたのもこの頃です。
  


  昭和42年の春頃、ローカルの地域クラブが、隣接されている病院へアマチュア局の公開運用に来て、関係資料を図書室に寄贈して行った事を知りました。早速図書室に行き資料を閲覧させてもらいました。問題集をみてみると自分でも何とか出来そうな感じです。この段階で国家試験受験の決心をしました。それから出入りの本屋にCQ出版の「ハムになる本」を持ってきて貰い、学校の勉強そっちのけで自学自習の毎日です。今までの断片的な知識を系統だって覚えていくことの快感のような物も少しはありましたが、困ったのは法規です。これはもう丸覚えしかありません。SWLで一方的にとはいえ、お馴染みになった局にご挨拶をしたい一心で頑張りました。そして昭和42年10月期、長野市の信州大工学部を会場とした国家試験を受験する事が出来ました。国家試験の問題は思ったより時間をかけずに回答できたことと、なぜか自分の後ろの席がYLさんだったことを未だに覚えています。

  11月半ばのある日、11月8日付けの合格通知が郵送されてきました!これは本当にうれしかった!それを持って慌ててO先生のところに行き、供に喜んでいただいたのが昨日のことのようです。学校でも全校集会で校長に「今日は嬉しいお知らせがあります・・・・」とやられ、面映ゆかったことでした。しかし自分にとっては本当に生まれて初めての外部資格試験での合格であり、開校10年ちょっとの学校にとっても、それは同じ事情であったのだと思います。

   合格すれば次は開局準備です。受験前から色々お世話になっていた、父親の勤務先の通信保守担当だったJAФB*V臼井OMとJAФK* 長門OMに使用Rigについてご相談したところ、「SR−550とペア推奨されているST−333では時代遅れ」とのことでした。時代は完全にSSB方式に変貌していたのです。ご推薦機種をお訊きしたところ「八重洲無線のFT−50がよろしい」とのことで、これに驚いたのは父親でした。2〜3万の出費で済むと思っていたら、外部VFO FV-50Bも合わせて10万円以上になりそうなのです。OM達から八重洲無線の社長もHamだと聞いた父親は、長谷川OMに私の合格を報ずる新聞記事を同封した直訴状を出し、販売店の仕入れ価格と同価くらいで本社直送品のFT−50を譲っていただくことができたのでした。とんでもない直訴状の趣旨を快諾して下さった、今はサイレントキーされた長谷川OMに改めてお礼を申し上げると共に、本当に良い時代だったんだなぁと思うことしきりです。 

   開局申請書類はJAФB*V OMに書いていただき、春休みで家に帰って居た3月26日、そのOMから「無線局免許が3月15日付けで発給され、コールサインはJAФEQLになった」との電話がありました。地域クラブの役員をされていたOMには、新規開局者のデータが回覧されてきており、わざわざお知らせ下さったのでした。そうなるともう居ても立ってもいられません。OMに無理を聞いていただき、仲間の方に次の日、7MCのIVアンテナを立てて頂けることになりました。(幸いFT−50は自宅に置いてあったのです。)翌日2人の方が来て下さり、地上高4〜5mの簡易型ではありましたが、あっという間にアンテナは上がってしまいました。「送信用だというのに、あんなに簡単な物で良いのだろうか?」と密かに不安に思ったのを覚えています。後で知ったのですが、この内のおひとりはJAФD*Oというプロ中のプロの方だったのです。こうしてアンテナとトランシーバを接続し、ふるえる声で感激の第一声を上げたのです。時に昭和43年3月27日午後3時頃、相手局は東京後楽園近くのJH1***局であったと記憶しています。(残念ながら当時のログが見あたりません。本当に残念です。)


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