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公益社団法人 長野県建築士会 埴科支部 公式ウェブサイト

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   平成18年度(2006)


撮影・見学会

  • 日時:平成19年1月28日
智識寺(上山田町)仁王門(左の写真)は、昭和62年に千曲市指定有形文化財に指定されています。
大御堂(おおみどう)(下の写真)は、昭和25年国指定の重要文化財に、聖武天皇が天平年間(729〜749)に創建されたといわれる真言宗の古刹。大御堂の内陣には身丈3m、欅(けやき)一本造の本尊・十一面観音(重要文化財)を安置。全国で三体しかないとも言われている十一面観音は、扉が閉まっていて見ることはできませんが、年に一度、4月17日にご開帳を行い、拝むことが出来るそうです。
境内はモミジの大木もあり、四季を通して新緑や紅葉、女郎花(おみなえし)の花で楽しめます。
隣は、智識の杜公園として整備され、アジサイ寺とも呼ばれているくらいたくさんの紫陽花の木がありました。
そして、「女涙坂(おなみさか)」の物語という看板には、こう書かれていました。
北信濃政略の武田信玄の軍勢に立ち向かう北信濃の名族、村上義清もその居城葛尾城に火を放たれ遂に落城しました。
時に天文二十二年(1553)の四月九日でした。この時、義清の奥方は侍女とともにひそかに城をぬけ千曲川を渡り草木を分けながら逃げました。
ふと坂道で振り返ると彼方に燃え落ちる城が見え涙を流したそうです。
そして、ここで追手のために弓で射られ命果ててゆきました。
城を焼かれ無念の涙を流しながら死んでいった奥方たち、さぞかし悔しかったことでしょう。「女涙坂」と呼ばれるこの坂はそんな戦国の時代に生きた女たちの姿が偲ばれます。
奥方が逃げ延びてきたときに渡ったと言われる笄の渡し、もぐり橋を通り次の目的地、坂城町へ
まずは、大英寺へ
下記は大英寺HPより抜粋
天長二年(825)に、僧空海により真言宗の寺として創立され、当時の名称は「天長寺」毘沙門天の霊場であった。その後「天福寺」と改められたが天文二十二年(1553)の村上義清と武田信玄の戦中で、戦火により焼失している。天正十年(1582)に「大英寺」と改め、更に、曹洞宗を宗派とした。

左の写真は、表門、右は本堂、素晴らしい技術の銅板葺き屋根です。
下の4枚の写真は、村上氏の居跡、菩提寺とされている満泉寺です。
残念ながら、本堂は改築工事の為取り壊されていました。
門も改修の為なのか、工事の為なのか上の写真の状態でしたが、鐘楼堂を含め苔むした屋根瓦、彫刻が施されたぐし、鬼瓦、しゃちほこ、どのくらいの年代の物かは分かりませんが見る価値大の満泉寺でありました。
坂城町のHPには、満泉寺の本尊は安山岩で作られた仏様です。円満な容姿と彫刻が美しく、見る人を魅了してやみません。鎌倉時代後期の製作と見られ、戦国の動乱をくぐり抜けて今に伝えられました。
石造の本尊は満泉寺が県内唯一です。と書かれています。
参加は、池田さん、大倉さん、高橋さん、近藤の4人だけでしたが、坂城に詳しい高橋さんのお陰で、迷うことなくどの場所も廻ることができました。
初めての、慌てて計画した、何の用意もない「建築士ながの」表紙、門、ミニミニ撮影・見学会でしたが、無事に終わることができました。ありがとうございました。

 

「親しみ」第120号 表紙

 

棚田


過日、小五の娘が姥捨の棚田で、田植えをした。私といえば、それこそ何十年ぶりに棚田に会いに行きました。景観整備がされていましたが、昔のままの棚田の風景でした。
嬉々として田植えをしている子供達を見ながら、この美しい自然と素晴らしい景観が、いつまでもこのままでありますように・・と心新たにした一日でした。(大倉) 平成13年

 

「親しみ」第130号 表紙

 花の時期、杏の里としてにぎわう森地区の山中にある観竜寺(信濃三十三番札所6番)も、春を待つこの時期は閑散としていて、そのたたずまいに心洗われる気がしました。
この一帯は観竜寺大峰自然探勝園として、大峰山一帯の赤松の天然林や栗、コナラ等の広葉樹林と森地区一帯に広がるあんず畑の景観と調和して、のどかな田園風景をかもしだしています。(浅野) 平成17年

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