山浦真雄筆録 『老いの寝覚め』 (全文)

 老の身能寝さめ可ち那るをい可にせん 独ともし火にむ可ひてつ久づ久おもひ侍るに我が好刀工の道多るや其うつわの利害得失盤さら那り 刃味の源趣位の高下に至る迄も同じ手して作里出ける多に お那じさまに盤出来ぬものなるを人の手して造り多らんはいふも可ひなき事になん有ける 
 さて其同じ可良ぬが那かに都きて もろもろ能名工多ちの短なる所を知りてこれを捨て其長なる処をとりて帰せしめ 志可してのち能衆妙の門に悟入し多らまし可ば げに天の下の良工名作とも仰がれぬべしとぞおもふ ここにいにしへよ里有とし有ける世の名剣どもの上につきて考るに 剣てふもののよし安しをあげつろはんに盤 安那可知利鈍のうへのみにあら須 おのつ可ら其徳其威備は里ぬれは ぬ可ねとも鬼神おそ礼 ふるは祢とも強敵も伏しぬべからしめるを社た可らともいふ也けれ さ礼盤かしこ可れと 大御剣を奉始わ可日のもとにして盤 国の守世の守ともなりぬべきもの此剣の外やはある 可具もとふとき剣なれば そを作らん人は常に先我が志を高く
 清らかにして心に可可る事那く澄て 仁義信勇自然と備を肝要と心可くべき事曾可し 扨剣作らんとおもふ時は 先平素錬磨し置多る精神をも者ら槌に凝らし 我が身玉の如く大空も快く晴 わ可神静にして鬼神頭の上に在が如く 左右に現るる可如久なる時を得て 殺人刀より活人刀を作得て 国の守代の守ともなれ可しと打立るとき盤 い可那る鬼神強敵といふとも などかおそ礼ざらんや さるを近頃の人々はかかる筋の心得多らんもの甚稀也けり 曾盤わ可道の本意那らぬのみにあら須 さる人の作り多らんもの帯びな須人さへに花な可る遍し 
 おのれわかか里し時撃剣の技をたしなみて 年の十三斗の頃より志き里に太刀を得まほしくおもひ 是曾能きと見る器得毎に利鈍を試み 用法を考ひ 佩て軽重をは可り 長短得失に至る迄も座臥進退につけ都都ためしもて二百余刀に及べり されど一ふりだにも心に叶ものあらざりれり ここに水心子正秀といへる人は其頃の名誉也ければ その許にたづ年行て造刀の事を頼みけるに 快よくうけ引侍りて 寒き程の霜乃刃をば作り出してたびけり おのれう礼し久おもひて例の如く試みるに 心ゆ可祢ば 今一手際と望ける程に 
 正秀大に腹たてていふよふ わ礼積年鍛する所千余刀に及びぬれと三都可らためして出しつる器再びなといはれし事おぼへ那し 曾もけし可らぬ人哉などと散々にののしられ里 おのれいひけるはいやとよ わ可望ところは人と異先肝要とする所は姿也 身に帯する時はたとふに可のけものらや角のおのづ可らなる如く 剣と身と相わすれ 嶮岨をわたり遠路をゆ久とも腰都可れ須勇気たゆまぬを社よしと盤すれ 又反り浅きは佩ひ心よから寿 
 祓に不便也 切味に婦うして堅物にかかりてはのるぞかし 戦争にはともすれば平打の難あり かかる得失利害を含給へて先生の業して打立る時は 金気充実してと可ぬ程より身潤を生じ 試み寿して疑なき刀の出来るものならんと曾おもふ されば新刀鍛冶数百家有といへとも たくら婦べき物なき名刀也とおもふ可故に望なりといふ 正秀此事を聞て忽色気を直し御身壮年に似合ぬおしろき事いふ人那りさら者打進らせん寿るものを手伝して給へとて 相鎚せさ勢て三七日程にまたなき程に曾作里出しける 其時此正秀をしも師とも頼み 此道の技折してほしうはおもひつれとやみぬ 今其折の事のもひ出るに都け 近頃我が自得しつる古伝の鍛法も 可の正秀におひてものいへし程よりぞ 淵原しつるもおほ可んめり 
 曾れよりあまたの年月を経て後 おのれ二十六という年 刀剣の高下勝劣を倩考るに 刀工世々に衰へて 鎮護の要器たる事を旨として鍛する刀工甚稀也けり 文政の今に及んでいよいよ衰へ 皆世渡りの業と成行人目を惑す業而己長じ 自然と真実を失ひ 精神なき物おふ久 是ぞ世の守と信す遍きつるぎ見へざれば 是も天気のなす事とはおもひな可らも 頼みなき事とおもひ おのれ古伝の鍛法をさ久り 自可ら造りて佩刀となさん事をおもひ立て 河村三郎寿隆といへる人に逢て 始て此道に入立侍りたりける
 此人盤諸国修行しぬれば 慶長この可たの事は 衆工の妙所を自得し 花やかなる事はおさおさ いにしへ人も及ぬ程な可ら いにしへの法則には心得薄き可たなれば 其の妙趣におゐては い可可有とおもふも多可りける おのれ此人のもとに通へつる事二とせ斗にして 其後は家に安里てあまね久古今の鍛法をさ久りて打試みける事とはなしぬ 昼は諸用の多ければ 夜毎に弟也ける清麿と二人して精を砕きて数多の都るぎ作立て侍るほどに またの夜さり更多けての知 い可に吹くとも可年乃わかざる事有けり
 その程は父の諱信風いまそ可里つる時なれば 傍よ里見給ひて 各よ気の疲たらんと給ひけるを 可げにて母聞給ひもとより常ならぬ事には気がかり有る性なれば 酒持出てたび給ひれり 兄弟ほっする寿じなれば 清麿是は有難し有難しとこおどりしてよろこび 父母にも進らせ おのれらものみて時うつりとりかかり吹立侍りれり可年のわ久事始には似ず いかにも快く鑠きぬるを面白久おもへ 夜のあくるも知ら寿鍛侍りけり 此事を考るに始めわ可ざりしは 夜半極陰の時なればなり の知の鑠きよろしき盤明近き頃にして鈍陽の故なんめ里 かくいろいろにおもひを凝らしぬ 
 そも我家居所といふは信濃なる小県郡赤岩といふ処にて 先祖山浦常陸介信宗が城地をその儘住所にし侍りつる事なれば 功岸高して千曲川の激流を眼下に見下し 左に鶴が城 糠塚城 横根山といふ高山を見さけ 辰の方に袴腰城 己の方に布引山嶺岩寺が城 峩々として風景あり 可の葛尾の麓なる岩鼻を右に望みて 前後六七里斗が間 眼中に歴々たる風景也 一とせ夏の夜乃事にし有けるに 螢の光をきらきらとして千曲の河都ら一面に飛かふを見て 天地の気乃はたらきてふ事を風とおもひより侍りて おのが息と脈とをとりて考つるに よろ津の事すべてあめつ知のわざならぬは安らじとおぼひぬ礼ば 此天地に則をとりて わ可天性の理気を本として我精神よ里ねりいで多らんには 天人妙合の場に悟入せざらん事やはある登おもひとりては中々に夢にもわするる事な久 四十余の年月を此道に親灸しつれば 今盤か都か都世にも志られ 我が作の贋物を造る者処々にある程の身とはなりぬれど おもふ心の半にもわ可業のいたり可たきをい可にせん 安者れ安者れ斯老ぬる迄 とし頃赤き心もていか伝国の為 人の為とのみおもひ入てし誠を者 天津神国都神の志ろしめ給ひて
 我玉の緒の世々都々き多らん程 多々の一婦り也とも天人妙合互行互具 稀代のわざもの作り得せしめ 此道の幸知にあ津可らしめたび給ひ祢なと おもふも老の久里事那可ら 久里可へし久里可へし祢きおもひまつるになん有ける 安那やさし 年盤明治四といふ秋の夜乃長きを可こ知わび 六十とせ八の翁 遊雲斎寿長 しる須 除紙に一章を記 いにしとし東国に遊し帰るさ 碓井てふ峠にて日乃出を拝しつるに 東海を直下に見る其風景言葉に及難を 海山を 恬光や 初日の出
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