東井義雄 「おかげさまのどまんなか」(佼成出版社)より

 

こんなことがあって良いのかと思う。

 

東井義雄先生は、生涯を初等教育に捧げられた。

浄土真宗本願寺派「東光寺」のご長男として生まれ、念仏信仰は先生の根っこであった。

自分に厳しく人に優しい先生だった。

 

いつも優しい先生が、珍しく厳しかったことがあるという。それは、ある講演の帰路、お疲れのご様子だった先生を

グリーン車にご案内しようとし、講演先で受け取られ枯れかけていた小さな花束をゴミ箱に投げ入れた時だった。

「私のような者がグリーン車に乗ると尻がくさる。もったいなさすぎる、もったいなさすぎる。こんな東井がすわっても

よい席は、グリーン車にはない。」とそこまで言われて絶句され、さらに、「せっかくいただいた花束だのに。

どれだけの学生さんのお気持ちがこもっているか・・・、たとえ枯れかけていても、私にはもったいなさすぎる。

きれいなきれいな花束だのに。どうして、それを分って下さらないのか。」

そして、ゴミ箱から枯れかけた花束を取り出された先生は、その後、大阪から姫路までの1時間余りの車内で、

それをじっと抱くようにしておられた。もちろん、普通車の堅い座席にすわって・・・。

先生は、座席にすわられると、すぐ、いつもの温和なお顔で、「燃えかすのような私をこんなにきれいな花束で

飾って下さるなんて、もったいない。先生と呼ばれる値打ちも資格もない私なのに、こうしてたくさんの若いいのち

に出会わせていただけた。本当にありがとうございました。」と言われた・・・・・・・・・・・・・。

 

そんな先生を突然悲劇が襲う。ご自分の胃癌摘出手術、そして何より、最愛のご長男、先生と同じ小学校教師の

道を歩まれていらした義臣氏が、体育の授業中倒れ、46歳の働き盛りで植物状態になってしまわれる。

 

東井先生の日記より

 

苦しみも悲しみも

自分の荷は

自分で背負って

歩きぬかせてもらう

わたしの人生だから

 

朝、出勤するときには

互いに手を振りあって 見送り

そして 出勤していった 倅(せがれ)であったのに

それから一時間半の後

一校時の 体育の時間

子どもたちと一緒に 運動場を走っているとき

突然 ぶっ倒れて しまったという

すばやい 学校のご処置のおかげで

すぐに 病院に運ばれ

すぐに 停止してしまっている呼吸や心臓を

人工で はたらくようにしていただいたという

 

機械による 呼吸であるとはいえ

こうして 呼吸をさせてもらい、

いのちをいただいているのは

学校のすばやいご処置と

出石病院の先生方の おかげだ 

 

学校の皆さん

病院の先生方

ほんとに ほんとに

ありがとうございます 

 

どんなに重い荷物であっても

たといそれが「死」という荷物であっても

それが 私の荷物であるなら

ありがとうございます と

拝んで 受け止めさせていただく覚悟はできていた

しかし

代わってもらえないことよりも

代わってやれないことが

こんなに きびしく

やりきれないことであるとは

知らなかった

代わってやれないということは

自分が死を賜わることよりも

つらいことであったのか

そのことを

倅(せがれ)よ おまえは

こんな形で

私に 教えてくれるのか

 

もう何も 思い残すことはない

いつ「死」を賜っても

心残りはないと 思っていた 私であったのに

倅よ

これでは

死ぬことも できないではないか

まだ まだ

この世の修行が足りないので

人生という学校の 卒業が

許してもらえない ということであるのか

まだ まだ

悲しみや 苦しみが

足りないということで あるのか

 

「一寸先は闇」

ということばが

思われてならない

一人や二人が

こういうことに 出合ったのではない

十人や百人が

こういうことに 出合ったのではない

何千 何万 という人だちが

こういう 思いがけないことに 出合ってきたのだろう

 

しかも それは

今にはじまった ことではない

何十年 前にも

何百年 前にも

何千年 前にも

こういう 思いがけない できごとに

多くの人が 出合って きたのであろう

 

そして

誰というとなしに

「一寸先は闇」と

つぶやき 続けて きたのであろう

その

「一寸先は闇」ということばを

いま

わがこととして

私は

噛みしめさせてもらっている

 

浩臣や 和臣が

またしても またしても

ふり返り ふり返り

手を振って

学校に 出かけていく

下の道へおりていく 階段の曲がり角では

いつも 体を左に曲げて

上半身を 私やばあさんに見せながら

手を振って 出かけていってくれる

 

このかわいい孫を

倅(せがれ)よ

倅よ

どうか お父さんのいない子には

しないで やっておくれ

 

日曜日

育子や 浩臣や 和臣が

病院の廊下にも ひびきわたるように大きな声で

「お父さーん」

「お父さーん」

「お父さーん」

何べん 一生懸命 呼んでも

何の反応もない

目の前の蟻に

どんな 大きな声で 呼びかけても

声は 届かない 

おなじように 生きてはいても

生きている 境涯が 離れすぎているから

境涯の距離が 遠すぎるから

目の前にいても

声は 届かない。

倅よ

おまえは

かわいいわが子たちの 必死の大声さえ 届かない

そんな 遠く離れた 境涯を

生きさせて もらっているのか

いま

 

私は いままで

しあわせで ありすぎたのであろうか

小学一年生になったばかりの5月に 母が死んだのを手はじめに

数えの二十八のとき 父が死ぬまでの二十年間に

家から 六つの葬式を出した

いろいろな「死」にであってきた

しかし きがついてみると

自分より年下の

妻や 子や 孫に先立たれるということなしに

この年まで 生きさせてもらってきた

 

まもなく 九十ニ歳になられる 武知のおじいさんにしても

弟さんに 先立たれ

長男の敏郎ちゃんに 戦死され

妻の おまちさんに 先立たれていらっしゃる

後残りの悲しみを

またしても またしても 噛みしめながら

生きて こられて いるのだ

 

私はどうやら

いままでが

しあわせで ありすぎたようだ

 

でも 倅よ

どうか どうか

親に先立つことだけは

してくれるな

 

老妻が

病院から 帰ってきた

ゆうべも ひと晩 ひとりで

つきっきりで

みてやってくれた

老妻

 

だんだん

小さくなっていく

老妻

小さくなり

小さくなり

消えていって しまったら

私は

いったい どうなるのか

がんばってくれ

老妻

 

 

「しあわせ」の見える目

 

「目をあけて眠っている人」

隣の町のお寺の門前の掲示板に、

「目をあけて眠っている人の目を覚ますのは、なかなかむずかしい」と書いてありました。

「目をあけて眠っている人」というのは私のことではないかと思うのといっしょに、悪性腫瘍のために亡くなられた

若き医師、井村清和先生が、飛鳥ちゃんというお子さんと、まだ奥さまのお腹の中にいらっしゃっるお子さんの

ために書き遺された『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社刊)というご本のことを思い出しました。

 その中に「あたりまえ」という、井村先生が亡くなられる二十日前に書かれた詩があります。

 

  あたりまえ

あたりまえ

こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう

あたりまえであることを

お父さんがいる

お母さんがいる

手が二本あって、足が二本ある

行きたいところへ自分で歩いてゆける

手をのばさばなんでもとれる

音がきこえて声がでる

こんなしあわせはあるでしょうか

しかし、だれもそれをよろこばない

あたりまえだ、と笑ってすます

食事がたべられる

夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる

空気をむねいっぱいすえる

笑える、泣ける、叫ぶこともできる

走りまわれる

みんなあたりまえのこと

こんなすばらしいことを、みんなけっしてよろこばない

そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ

なぜでしょう

あたりまえ                     

                     和清

 

 お寺の前で、私は、井村先生の詩と共に、今は亡き塩尻公明先生のおことばを思い出しました。

「人間は、無くてもがまんできることの中にしあわせを追い求め、それがなくてはしあわせなど成り立ちようの

ない大切なことを粗末に考えているようだ。例えば、子どもが優等生で、有名中学校に入学するというようなことの

中にしあわせを追い求めるあまり、子どもが健康でいてくれるというような、それなしにはしあわせなど成り立ちよう

のない大切なことを、粗末に考えているのではないか。」

という意味のおことばでした。

「それなくしては、しあわせなど成り立ちようのない大切なこと」「あたりまえ」のすばらしさの見えない人、そういう

人を「目をあけて眠っている人」というのだと思いました。

そして、私も、その中の一人だと気づかせていただきました。

 

ある日、先生のところへこんな手紙が来たそうだ。

「東井先生は阿弥陀様ばかりに頼っているから仏罪がおりたのです。私の信じる宗教に改宗したほうがいい。」

手紙は一通にとどまらなかった。それに対して先生は

「全国には、たくさんの方が私たち家族を心配して下さっているのですね・・・。お一人お一人に私の信仰を訴え、

ていねいに返事を差し上げました。」と話された。

そして、こんな日記を残されている。

申しわけございません

 

義臣の突然の大病のうえに

私までが 脚にギブスをはめてもらったりするものだから

多くの皆さんが

如来さまのお救いに

疑問をもち始めておられるようだ

どんな災難にであっても仕方のない

いや災難に遭うのが当然の

はずかしい 申しわけない人生を

生きさせてもらっている私たちであるのだが

 

それを皆さんご存じでないから

如来さまにまで

皆さん

疑いをかけて おいでのようだ

 

申しわけない

私たち

 

如来さまによって 生かされてきながら

私たちがこのざまであることで

如来さまにまで ご迷惑をおかけすることに

なってしまっている

私たち

 

申しわけございません

南無阿弥陀仏

東井義雄先生は平成三年四月十八日、いまだ植物状態の長男義臣氏と御家族に心を残して、七十九歳で

亡くなられた。

 

東光寺の黒板には先生の御遺書となった「一度きりの尊い道を今歩いている」との力強いお言葉があった。

 

 

 

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