2008年8月号 No.721



「猫じゃらし」


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 初秋、道路脇で毛が密集した五〜六センチの円筒形の穂を付ける草がある。エノコログサである。これで猫をかまうと良くじゃれる。 猫のじゃれは小動物を捕るためのウォーミングアップに見える。野生本能が残り、無意識に狩に関連する動きをしているといえる。 フリスビーやボールに飛びつく犬の動きも狩を思わせる。犬は木でもプラスチックでも噛める物は何でも動物の骨を噛む様に噛む。 人も同じではないだろうか。ターグはここで「人が食う事」に関する種々を論じてきた。しかし本当に人は胃袋に食物を入れる為に物を食っているのであろうか。チューインガムはどうだろう。空気を食べるようなスナック菓子はどうだろう。スルメはなぜあんなに固いのだろうか。噛みコンブは何の為にあるのだろう。
 実は人も必要がなくても噛む・食う動作を繰り返さなくては居られない生物なのではないだろうか。 口を動かし、物を噛んでいないと精神の平安が保てない。ならば、食い過ぎて腹が満腹であっても噛む為に食い続ける可能性がある。 ダイエットに寒天を食すなどはその典型であろう。カロリーは不要であるが、口を動かし、物を飲み込む習慣は維持したいと思い込んでいるとしか考えられない。
 栄養過多の人が本当に向き合わなくてならないのは、この「動作の習慣」であって、食べる事ではないのでないだろうか。
 犬の噛み癖を直すのは習慣の調教であって、餌の教育ではない。 ターグは禁煙や禁酒が実行できない背景にも、この錯覚があるのではないかと考えている。
 禁煙ができないのは、ニコチン中毒だと説明される。確かに中毒の場合もあるであろうが、「動作の習慣」が止められないだけの人も多いのではないだろうか。一息つきたい時、考えが纏まらない時、一服の紫煙を求める習慣が直らないだけなのではないだろうか。
 直すべきは「動作の習慣」であって、喫煙ではない。飲酒に関しても同じで、仕事帰りに同僚と飲む、家に帰って晩酌するなどの行為のかなりの部分は習慣である可能性がある。米国人が食事の後で大きなアイスクリームを食べるのも習慣で、体や胃袋が要求しているのではない可能性が大きい。
 極端にいえば「私は何々が好きです」と思っている味覚や嗜好も、習慣が言わせている可能性がある。 本稿でターグは「人の食習慣と味覚は歴史と風土の産物である」「胃袋の記憶は非常に保守的である」と繰り返し主張してきた。
 人は生まれ育った風土にある植物や動物を食って来たので、食習慣や味覚が風土の産物である事はすぐ分かる。問題は「歴史を食って」いる事である。この中には宗教上の理由で牛や豚を食わない、犬や猫は食べないなどの社会が持った歴史やタブーもある。しかし意識せずに単なる習慣として連綿として続いて来た事を、本人が味覚や嗜好の問題だと錯覚している現象もかなり多い筈である。

 人の味覚や嗜好が舌や鼻、口や胃袋の問題ではなく、習慣の問題だと思えば別の面が見えてくる。 実際は無理であろうが、一服したくなった時に、爪を噛む、指をしゃぶるという習慣を作り出せる人は喫煙習慣から脱する事が出来るかもしれない。ストレスから一杯飲みたくなった時に、ラーメンを食う習慣を新たに開発できる人はアルコール依存から抜け出せるかもしれない。この事は賭事やゲームなどにのめり込む人の場合にも言える可能性がかなり高い。



(ターグ・ターケン)