2008年8月号 No.721



「肉食の思想」



ドガ カミュ夫人 ターグは若い頃、他の生物を殺して食べる人間を本当に恐ろしい存在だと思い悩んだ事がある。同時に自分が他の生命を日々殺して食っている種の一員であることを本当におぞましく思った。
 今でも動物を食べる事を忌避して肉や魚は食べない仏教徒がいる。西欧社会でも野菜類しか食べないベジタリアンがいる。
 厳密にいうと植物にも生命があるので、命ある物を食べないで生きて行くのは不可能なのであるが、自分が食うために、目前で生きている物を殺すことは避けたいという感情も分からないではない。
 結果として寿命で死んだ鳥や魚は食べても良いとか、意志が感じられない卵や貝は食べもよいとか種々の意見が生まれているが、いずれも自分を納得させるための論理に過ぎないであろう。
 若い頃、他の生命を食う自分の存在を疑ったターグが、どういう答を得て、今は平気で肉や魚を食べているかを問われると、実は絶句するしかない。
 答は出していないのである。生きるために毎日食べている間に、感覚が麻痺して考えない様になったに過ぎないのである。同じ事は「人生とは何ぞや」「人生は生きる価値があるや、否や」などの若い頃に真剣に考えたテーマにもターグは答を出していない。
 答を出すために生きているのだと考える事で自分をごまかしているともいえる。
 分業の進んだ現代社会では自分が食べる牛や豚が屠殺される現場を見る可能性はゼロに近い。
 フライドチキンは食物の固まりとしてのフライドチキンであって、もとは鳥をいう生物であったと意識する機会はほとんどないといえる。お陰で現代の若者は自分が日々他の生物を殺して口に入れている事に悩む事はないであろう。
 この事は幸せというより、不幸である。ターグは自分が可愛がって飼育した鳥や豚が父によって屠殺されていく姿を小さな子供の頃から沢山見て育った。初めは喉を通らなかったこれらの肉も慣れてくると平気になり、旨い旨いと食べる様になった。
 食物連鎖は神が考えた皮肉なのか、生命が単純な蛋白質の固まりから発達し、互いに吸収し合ったり、分離したりしながら高等生物に進化してきた結果のかは知らない。しかし全ての生命が他の生命を食べなくては生きていけない自然の摂理の前には誰もが沈黙ぜるを得ないであろう。
 パリの朝市で皮を剥かれた赤裸の兎などがぶら下がっているとギョッとする日本人も、日本に帰ると魚の活造りを前に狂喜し、まだ生きて口をパクパクさせている鯛や鯉に日本酒を飲ませたりして楽しんでいる。ターグからみたりこの方がずっと残酷に見えるが日本人でそう感じている人に会った事がないので、食物に関する生命感や残虐感は長い食習慣の産物であると分かる。
 それはうじ虫や蛇を食う習慣、犬や鼠を食う習慣にも当てはまり親が目の前で喜々とし食べてみせたものを美味しく感じる様になるのではないだろうか。
 欧米人が犬を食う中国人や韓国人に眉を潜めて見せるのも、これらは習慣の違いであって、正邪を論ずる対象ではないのである。

 もっとも信州人の馬肉食も中央アジアや西欧社会の一部からは忌避される可能性があるので、注意が必要かもしれない。




(ターグ・ターケン)