2008年8月号 No.721



「年齢食」



マネ 闘牛 子供の頃に好きだった甘い物やミルクの匂いのする物が加齢と共に好きではなくなったという経験は誰でもあろう。
 昔、日本に「人は体力に応じてとれる食物を食べるのが一番健康に良い」という説を唱えた学者がいた。赤ん坊の時はハイハイをしていても拾える虫や貝を食べ、子供の時には木に登って採れる木の実や果物を食べ、獲物と格闘できる青年になったら肉を食べ、体力が無くなったら作物を作り穀類と野菜を食べる。腰が曲がってからは野で拾える木の実と浜で拾える海草を食べるとの理論である。彼は自らこれを実践したが、意外に早い年齢で亡くなってしまったと記憶している。
 ターグの学んだヒンドゥー教では人生を四つの住期に分けている。 師の家でヒンドゥーの法を学ぶ学生期、結婚して子を育てる家長期、引退して森に住む林棲期、森を出て巡礼をする遊行期である。同時に学生期には経典を必死に学び、家長期には必死で性愛に励み、林棲期には世事から離れた宗教性の高い生活を送り、遊行期には解脱を目指す巡礼が求められている。この説には年代による食の嗜好変化と軌を一にしている所がある。 ターグは日頃、日本人の心にインドの影を見ることが多いが、日本人が晩年になると鴨長明や西行法師、山頭火などに憧れる心境と四住期説には共通するものがある。 年齢と共に嗜好が変わるのは、加齢と共に、体が要求する栄養素が変わる事によるのではないかと考えられる。
 日本では老年になると全員が蕎麦好きになる様に見える。これも蕎麦の中にあるルチンが動脈硬化や高血圧に効くからであろう。同時に性愛に励む青年期のように脂ぎって血の滴る様な肉を必要としなくなることも大きいであろう。 動脈硬化への心配から高齢者は海草を中心とした粗食が良いとされた時代があった。しかし最近は沖縄の人々の長寿に注目、高齢になっても沖縄の豚肉角煮のような肉を食べるのが良いと言われだしている。ブルガリアが長寿国である事に注目し、高齢者はヨーグルトを食べるのが良いとされた時代もあったので、学説も流行り歌のようなもので、風の間に間に変わると思っていた方が良い。
 果物や栗の木は古くなると味が落ちる。瑞々しさや甘み、コクなどが無くなる。逆にブリやマグロは若い魚体は脂の乗りが悪くまずいので値段がつかない。また、羊や豚になると脂の乗りは無くても小羊や小豚の肉の方が柔らかくて味が良いので人気がある。
 晩年のピカソは衰える精力を何とか維持しようと、闘牛場に通い、殺された雄牛の睾丸を求め、これをニンニクたっぷり入りのバター炒めにしてむさぼるように食ったという。老齢になっても若い女性の肉体を求めること餓鬼のようであったともいうから、ピカソの食への狂信はある程度の効果を上げていたのかもしれない。しかしスペイン人のピカソが中国薬膳的な発想をしたことへの興味以外は、余り気持のいい話ではない。

 年齢と共に枯れ、自然の風雅を愛でる風流人を目指したインドや中国、日本などに残るアジアの加齢文化の方が清々しい気がする。 「考える胃袋」もターグの歳より多い八四回となってしまった。
 私もそろそろ食べ物の蘊蓄を論ずること止め、気位無き飽食日本を去り、一杯の粥に手を合わす故郷の国の巡礼に戻ろうと思う。皆様、七年間のご愛読ありがとうございました。さようなら。




(ターグ・ターケン)