2008年 7月号 No.720



鎮守の森



 列島改造の嵐が去って、日本の山野の風景は一変してしまった。日本の地方都市の風景はどこも全国均一なファーストフードとサラ金、コンビニの看板に占領されている。ところが、けやきの大木が集まった森だけはそのまま残っている地方都市が沢山ある。
 神社である。都市化が進展する前は鎮守の森として、村の子供達の遊び場であり、春・秋に行われる村祭りの舞台でもあった。祭りの当日は屋台が並び、子供が群がった。夏は盆踊りの場で、幼馴染みの成長した姿に村の青年が胸をときめかせた場でもあった。
 神社は土地の精霊信仰と結び付いており、道路計画などでも移転させるのが難しい。東京の真ん中に巨大な森を維持してきた明治神宮に見る如く、鎮守の森の木を切る事は日本人にはできない。本能の奥深くで、照葉樹林帯に恵まれ、日本列島に生きてきた先祖の血が森の木を切る事を畏れさせるのである。
 鎮守の森はスズメやモズの寝ぐらでもあり、雛を育てる保育所でもあった。その地方の生態系を守っていたともいえる。
 太平洋戦争時に神道が国家によって重視されたのは、国粋主義が進む状況の中では、仏教などの外来の宗教では、霊を弔う説明が付き難かったからであろう。
 鎮守の森の祭りは農村の祭りで、豊作を祈願する春祭りと、豊作に感謝する秋祭りで構成されていた。一方、都市の祭りは夏祭りである。人が沢山集まる都市では、夏と共に疫病が流行り始める事が一番の恐怖で、疫病が流行らないよう夏の始まりに祈った事から始まった祭りが多い。かくして都市化が進展する中に残された鎮守の森は地域の子供の遊び場や地域祭りの場所としての役割を終え、ビルの谷間でひっそりと木々と小鳥を守る事が現在の最大の役割となっている。
 木々に精霊を見た日本の古代信仰は貴重である。伊勢神宮の深い森を参拝する時に不思議な感動に襲われない日本人は少ない。
 「この森は残さなくては」と考えた祖先が社を建て、鎮守の杜とした知恵には改めて感動する。 最近の都市はどこも街路樹に寝ぐらを求める鳥の大群に悩まされている。都市には新たな鎮守の杜の建立が必要であろう。

(大愚)