2008年 7月号 No.720



憤 死



 昔、インド街頭で蛇使いを見た。言う事を聞かない大蛇が盛んに苛められて、死んだ様にぐったりした。蛇使いはその大蛇を後ろに置き、コブラを手掴みにする芸に移った。
 蛇使いがコブラの首を押さえて観客に持ち上げて見せた瞬間、それまで死んだ様にしていた大蛇が突然、宙を飛び、蛇使いの踵に噛み付いた。蛇使いの踵から血が吹き出すのが遠目にも見えた。当然、大蛇はメチャクチャに鞭で打たれ、虫の息となった。爬虫類にしても恨みや怒りの感情はあり、復讐の機会をじっと待っていた事に新鮮な驚きを覚えた。 子供の頃に足長蜂の巣を竿で落とし、蜂の集団に追いかけられ肝を冷やした記憶がある。昆虫にも「恨み」や「復讐」はあるのである。 家康が関ヶ原の戦いに勝ってから、十五年かけて豊臣家を追い詰めて行く過程には凄まじきものがある。あれでは全滅すると分かっていても、最後の一戦を挑む気持ちに豊臣方がなるのもむべなるかなと思わせる。
 日本陸軍最高統帥部の作戦部にいた瀬島龍三の『大東亜戦争の実相』を読むと、平和を希求し、戦争を回避したいと望みながらも、英米に追い込まれ、最後通牒とも言えるハル・ノートを前に、明治以来、アジアの中で唯一独立を保ってきた日本民族の歴史さえもが否定されたと感じ、戦争を決断していく日本の指導部の心理が生々しく記録されている。
 爬虫類や昆虫にも切れる瞬間はあり、人には理性があると言っても我慢の限度はある。
 信長に妻と長男の殺害を命じられても我慢、これに従った家康の辛抱強さは例外である。 「キレル」は怒りで神経が切れ、正常な判断や行動ができなくなる事を指す若者言葉であるが、もともと怒りが限界点を越える事を「堪忍袋の緒が切れる」と表現した。どんなに辛抱強い人にも、死をも考えなくなる限界があり、そこを越えると人は憤死する。
 屈辱に耐え、生き長らえるより、むしろ死を選ぶ心境は人間だけに与えられた高貴な品性ではなく、多くの生物にもビルトインされている思考方法らしい。あらゆる意味で何とも情けない状況の日本社会に対し、国民が憤死に値する怒りを感じ得ない現況は日本にとって幸いな事なのであろうか。

(大愚)