隠居の哲学
長寿社会を迎え、幾つになっても現役でいる事が幸せの条件であるが如き論調が盛んである。風格・品格・威厳を感じさせる年配者がいなくなり、気味悪いほど若造りした年寄りが街中を闊歩している。
若い事はそれほど素晴らしい事なのであろうか。少なくとも大愚には、目先の欲望や愚かな誘惑に迷っていた若き日々よりも、世間が良く見え、欲望を適度に制御でき、人の心の痛みが理解できる還暦を過ぎた今の方がずっと良い。矮小で惨めだった若き日々に今さら戻ろうとは露ほども思わない。時を重ねる事で深い滋味と春の温もりを感じさせた日本の年寄は何処に行ってしまったのであろうか。 江戸時代の大店の主人や旗本の家長は隠居し、一日も早く花鳥風月を楽しむ道に入りたいと願い、早い者は三〇代で息子に家督を譲り、隠居の道に入っている。頭の回転が鈍くなり、足の運びが覚束無(おぼつかな)くなっても何時までも地位にしがみつきたがる者が多い現代とは全く違う価値観である。日本人は「老後を美しく生きる哲学」と、それを支える文化を何処かで失ってしまった様である。
充実した老後を支えるものは、現役の時の地位や肩書、富や褒章ではない。加齢の過程で自己の中に蓄積された「良きもの」の記憶である。ささやかであっても社会や歴史に貢献した人生への誇り、人に感謝された行為への記憶、偉大な先人の哲学に触れた時の感動、自然の神秘や芸術への深い洞察、人類の歴史への尽きぬ興味などが重層的に塗り込められた後に生まれた人格が醸し出す滋味こそが年寄りの魅力であり、加齢の楽しみであろう。 自分の人生を飾るために必死で掻き集めた肩書や褒章、名誉や富は、墓に入れば全て無である。自分が考えているほど、人は覚えていてはくれない。それよりは幼児に慕われ子供たちと終日毬をついて過ごした良寛の晩年の方かずっと素晴らしい。隠居してから自分の足で歩いて精密な日本地図を完成した伊能忠敬の人生の方が充実して見える。
日本はもう一度「隠居の哲学」に戻り、漂白の中で人生を詠んだ西行や芭蕉、山頭火、天才的な絵を残した北斎などの人生に憧れる文化に戻るべきではないだろうか。
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