2008年 7月号 No.720



宝くじ



 宝くじは全体で見れば、売り出す方が確実に儲かり、買う方は必ず損をする商品である。 それでも人は夢を買う。何万分の一の確率で実現する夢の裏には何万もの落胆と溜め息が残る。この構造は宝くじに限らない。競馬やパチンコ、各種の保険や年金、多様な投資商品なども、夢や災害を担保に、確率論の中で運営され、存続している商売である。
 歴史上の英雄伝説や成功物語なども同じである。誰もがエジソンやフォード、秀吉や紀国屋文左衞門になれる訳ではないが、人はその成功物語に胸踊らせ、夢を見る。豊臣軍に蹴散らされ戦場の露として消えていった雑兵は無数であろう。しかし誰も自分が野辺で屍(しかばね)をさらす方になるとは思わない。いや思いたくないのであろう。
 ある研究によると、この世に生まれて来る確率は何兆分の一であるという。その裏には相手に遭遇できずに、死んでいった無数の花粉や精子、卵子の死があるという。その意味では、この世に生を受けたこと自体が宝くじに当選した以上の価値があるのかもしれない。 「何時かは破れる夢を売る」商売はこれだけではない。多くの会社でも「努力すれば将来は社長になれる」との夢または錯覚を社員に与え続けている。この夢が売れない会社では別の夢で社員への動機づけが必要であろう。 学歴も、一流大学を出れば、誰もが幸せな一生を送れるとの錯覚に咲いた夢である。
 同族会社でなくても、多くの大企業では将来の社長候補は決まっている事が多い。しかしこれが知れると、宝くじの当選番号が漏れたのと同じで、多くの社員の夢が破裂する。
 夢はぎりぎりまで覚めない事が肝要である。八〇才になっても九〇才になっても、未だ若い異性と恋に落ちるかもしれないとの夢(錯覚)を持って生きている年寄は元気であろう。死の数分前に「あーやっぱり駄目だったか」と悟るのも人生なのである。六〇代で 「もう恋なんて」と達観した晩年とどちらが幸せだったかの判断は人によるであろう。
 確かな事は人は夢を食って生きているという事実である。次々を破れる夢を追って一生を送るのである。「シャボン玉、飛んだ♪・・・壊れて、消えた・・?」である。

(大愚)