2008年 7月号 No.720



消え方の美学



 この世に「おぎゃー」と生を受けた限り、「はい、さようなら」と別れを告げなければならない時は必ず来る。その意味では人は生まれた瞬間から死に向かって歩み出していると言える。
 最近、大愚が生涯に亘って尊敬している師からの音沙汰が全くなくなってしまった。年賀の返信もなくなり、電話も通じない。「ひょとして、お亡くなり・・」との不安が頭を掠(かす)める。しかし、ある時、はたと気がついた。これは師の「去り方の美学」なのだと。
 江戸の粋の伝統が生きる文化の中に生まれ育った師は、酒(しゃ)脱(だつ)で粋(いき)、心意気と生き方の美学だけで生きている様な人である。地位や名誉に恬淡(てんたん)、金銭に全く関心がなく、女性に優しく、友情に厚く、人に迷惑を掛けない生き方を一生貫いてきた。
 師は宴席の最中に、虚礼・形式大好き人間が、挨拶なしで帰るのは失礼とばかりに大声で「皆様、宴、酣(たけなわ)の所、済みませんが公務があり失礼します」などと挨拶すると、これをにやりと見送り「さー、再度、乾杯、乾杯」と醒めかけた宴席を盛り上げるのが常であった。実は後で、自分もそーと姿を消すのであるが、翌日の朝まで誰も途中で居なくなった事に気がつかない。姿を消すタイミングが実に粋で、細やかな心配りのできる人であった。
 電流に打たれた。師の究極の最後を飾る美学は「娑婆の義理をどんどん薄めて行き、皆から自然に忘れ去られ、誰にも迷惑を掛けずに、ひっそりと野辺に横たわり、やがてそこを苔が覆い、何時の日か草が生え、やがて花畑となって、人々を楽しませる」という人生の総括方法であるに違いないと確信した。
 以降、私は師の消息を尋ねる事を止めた。今現在、生きていらっしゃるのか、死んでしまわれたのかも不明である。でもそれはもう 関係ない。生きていても死んでいても、師の魄(はく)は既に蝶の様に宙を舞っている筈である。弟子の私は天に向かって祈るだけである。  師の美意識が人生のお暇(いとま)の時まで発揮されていると考えれば、師の行動が理解できる。 うらやましき消え方である。やりたくても凡人には出来ない。願わくば大愚もかくありたいと切に思う。

(大愚)