2008年 7月号 No.720



骨格なき社会



 どんな社会であれ、憲法や法律の以前に、その社会を構成する全員に当然の真理として受け入れられている原理がある。それがないと、あらゆる規則も法も納得性のあるものとならない。話し合いをしてみても、合意点を得ることが不可能になる。
人を殺さない、人の物を盗まない、女性を犯さない、嘘をつかないなどの原則は、社会の公理ともいえるものであって、社会の常識である。この常識を「なぜ人を殺したらいけないのか」「なぜ人の物を盗んではいけないのか」と議論しても仕方ないのである。この部分は議論せずに、その社会を構成する全員に適用される常識の前提として受け入れてからでないと、憲法も法律も制度も、その適否を論ずることができないのである。
最近の日本に起きる各種の事件を見ていると、この常識の部分が揺らいでいる気がする。この国、この社会を束ねる根源的な公理が消えかけているのである。
国家の骨格ともいえる、憲法を見直さないまま、拡大解釈でつじつまを合わせることを六○年以上も続けていれば、国民の間に、原理原則を軽視する風潮が広がっても仕方ないともいえる。これは国家の背骨が消えていくことであり、国や社会に起きる諸問題に関し、話し合いで合意を得られる社会の公理、正邪を疑う前に当然に存在するべき常識が消えてしまったことを意味する。援助交際の女子生徒に対して、なぜいけないかを、説得すべき基準が失われてしまっているともいえる。
長い歴史を見ても、国家の没落と崩壊は、その社会を支えていた骨格の原理が揺らぎだした時に始まっている。骨格を失った生物はクラゲの様なもので、その国家は方向も目的もないままに、歴史の海の中を漂うのである。

地上に生きる全ての生物に共通する大原則、常識の常識は、子孫のため、未来の世代のために生き、そのためには命さえも捨てることであろう。高等生物でもある人類種の日本人が、自分のことだけを考え、国の将来や、未来の世代のためを考えずに、自分の年金や個人一人の趣味や幸せの追求を人の前で公言することを「恥」と感じなくなったのは、いったい何時頃からなのであろうか。
(大愚)