2008年 7月号 No.720



武士道



 武士道は戦後、日本人の好戦的な性格を矯正しようとした占領軍によって一度否定され、バブル崩壊後のグローバリゼーションの流れの中で、再度否定された思想である。しかし、英文で公表された新渡戸稲造の「武士道」にみる如く、西欧の一神教の厳格な論理に比較して、自然崇拝のアニミズム的宗教しか持って来なかった日本人の思想の骨格を形作ってきた論理である事は間違いないであろう。
 葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」の部分だけを取上げ、武士道をファナティックで自虐的、自我を殺した忍従の道と解釈するのは武士道否定の典型的な手法である。
 八代将軍吉宗に仕えた室鳩巣(むろきゅうそう)はその著「明君家訓」中で「節義の嗜(たしなみ)とは、口に偽りを言わず、利己的な態度を構えず、心は素直にして外に飾りなく、作法を乱さず、礼儀正しく、上にへつらわず、下を慢(あなど)らず、己が約諾を違えず、人の患難を見捨てず、(中略)、その心は鉄石のごとく堅固であり、温和慈愛して物のあわれという情感を知り、人に情け有る」を誠の武士と規定した上で、組織と自立した個人の関係を前提に、自己の信念を守るためなら主君に抗命「諫言」する事を勧めている。
 武士道は藩主に悪行、暴政がある場合は、家臣団の手で藩主を堂々と監禁し、改心を求めるか、隠居をさせ、新しい主君を擁立する事も正当としている。実際、この「押込」は江戸時代を通し、広く行われていた。
 この武士達を使う立場にいた上杉鷹山が、家督を譲る一七八五年に新藩主に与えた「伝国の詞」には「一、国家は先祖より子孫に伝え候国家にして、我れ私すべき物にはこれ無く候。一、人民は国家に属したる人民にして、我れ私すべき物にはこれ無く候。一、国家人民のために立てたる君にて、君のために立てたる国家人民にはこれ無く候」とある。
 武士道とは個人の深い倫理観と、自由で確立した自我に基づく気品ある生き方を、国や藩、組織や世間の中で活かそうとした極めて近代的な思想だと分かる。
 因(ちな)みに国王の圧政に対抗し「自由・平等・博愛」を掲げた市民革命が成功、フランスで「人権宣言」が採択されたのは鷹山訓戒から四年遅れの一七八九年の事である。

(大愚)