鮭 さ け   ・・・・・さかなのうんちく  

*はじめに
*生き物としてのサケ 〜地球史を生きた環境適応力〜
*資源としてのサケ〜サケの主産地だった信州〜
*遡上のドラマ〜日本人の忘れ物〜
*味覚としてのサケ〜世界で好まれる味〜
*おわりに

*はじめに

 漫画「釣りバカ日誌」のハマさんそのままイワナ釣りに人生を見出だしている友人がいた。岩陰に身を隠して待つこと数時間、ビビッという手応えと同時に木洩れ日の渓流に銀鱗(ぎんりん)が踊ると、遠い祖先の記憶が呼び覚まされた様な激しい興奮を覚え足が震えると言う。
 イワナを語る彼の目は少年時代に戻り、身振り手振りで銚子が何本転がっても延々と続くのが常だった。
 そこまで彼を夢中にさせるイワナに何時か深山で出会って見たいと思いながらも彼の話で引っ掛る事が一つあった。どうして北アルプス分水嶺の西と東に同じイワナがいるかである。いくらイワナが海に下るサケの先祖であったとしても東稜線を流れる川のイワナが太平洋まで下り、日本海から川をさかのぼり西稜線の渓流に来るとは考えられないからである。ましてイワナは1メートルでも隣の渓流に移動する事が不可能な山奥の渓流に閉じ込められて暮らしてきた魚である。
 それなのにの様に北半球の北部全域の河川上流に生息している。彼のビクには狭い渓流で何万年も別々に生きたイワナ同士が横たわっている可能性がある。


イワナ類の生息域(北半球の北部全域の河川上流に生息している)

 
 イワナを含むサケ科魚類は2百万年前の新生代第3紀の頃に氷河の雪融け水の様な冷水域に誕生した。
 サケ類はその後何度となく繰り返された地殻変動や氷河期を乗り越える過程で自分自身が多様化する事で生き残ってきたのである。その後地球の温暖化が進行する中で雪が山の頂きや北国の窪地に点々と残る様に サケ類も水温の低い高地や北国に斑(まだら)模様にとり残されたものである。            
 時の進行を止めた落人(おちうど)部落が山奥でひっそりと息する様に、小さな渓流の中で細々と生きてきた命を彼は釣り上げていた事になる。
 一方で過疎化が進む故郷を離れ積極的に都会の海原に打って出たサケもいる。彼等は海水の浸透圧に耐えられるよう体の組織を変え、食料豊かな広い海を回遊する事で大型化し、体重40キロに達するキングサーモンも出現した。サケは地殻変動の歴史を強固な意思で 生き抜いてきた神の魚(カムイチェブ)なのである。

*生き物としてのサケ    
       〜地球史を生きた環境適応力〜

 シーラカンスが頑固一点張りの強靭さで地球の歴史を生き抜いた「生きた化石」とすれば、サケ科魚類の特徴は驚異的な環境適応力で自在に変身しながらも種の原点を失わなかった事である。海で捕れる銀毛のサケと溯上(そじょう)の川で捕れるぶな毛(ぶなの木肌に似る)のサケとは同じものに思えない。
 北海道の河川上流に住み赤い斑点を持つイワナのオショロコマ(カラフトイワナ)は川底の虫を主食にするため口は下を向き体の形は円筒型である。下流域に住み川面に落ちる昆虫を食すヤマメの口は上向きで体の幅は泳ぎ易く狭い。中流域に住む白い斑点を持つイワナのアメマスはこの中間の体型になる。北海道湿原の川底に住むイトウとなるとナマズに近い体型である。
 全てのサケ類は必ず卵を産みに生まれた地に戻り、故郷の川で死ぬ。彼等の卵は昔のままに水温低く酸素多い淡水でなければ孵(かえ)らないし、稚魚も育たない(イクラは淡水で沈み海水では浮く、また3〜4億年前発生のシーラカンスに対して2百万年のサケは未だ若い種である)。生存条件の変化に対応する段階でアイデンティティーを失い異なった種に転化してしまったケースは生物の歴史では無数にあったと考えられる。しかしサケ類は頑(かたくな)なまでに種のオリジナリティーを守りながらも環境の変化に対応してきた。上流のオショロコマは狭い渓流の中で何度も産卵する事で種を守り、下流のアメマスは沿岸沿いの海と川との間を往復しながら数度の産卵をする。日本人に馴染みの深いシロザケ(アキアジ)は3〜4年外洋を回遊し故郷の川に戻り、たった一度の産卵で死ぬ。
 日本の淡水湖で一生を送っているヒメマスも海に戻せばベニザケに変わり、日本中にいるヤマメも海に下ればサクラマスに育つ。しかし溯上のメカニズムは解明されていない。最近は沿岸に戻るまでは地磁気を感じ、沿岸で故郷の川を識別するのは匂いによるとの説が有力ではある。ヒメマスは氷河期以降の気温上昇で日本を去っていったベニザケが阿寒湖などに取り残されたものと考えられているが、不思議な事に一度も海に出た事がない筈のヒメマスを海に出すと、の様に極東からのベニザケだけが集まる太平洋中のある領域に直行する。カナダからのベニザケはカナダからのベニザケが集まる領域に来る。他のサケも日本のどの川から放流しても大部分は日本のサケが集まる決った 「海の古里」に行くと言う。これは帰ってくるメカニズムより不思議な現象である。


カナダベニザケ、極東ベニザケの領域

 
 例えば日本のサケの卵を南米の川に移植してもサケ達は南半球の海洋では自分達の「海の古里」を見つける事が出来ず、ふ化事業は成功していない。アイヌが神の魚(カムチェイブ)と呼んだサケにして初めてできる遠い祖先の記憶の再現なのであろう。もし彼等の脳に残る磁気コンパスが大陸が分化する前の位置を覚えていて「海の古里」に帰るとしたら、彼等の海の古里は彼等の祖先が住んでいた陸が移動して海になった所と言う事になる。
 これだけ環境に合わせ形態を変える事が抜群にうまい生物であったのに、サケはなぜに「種の発生の場所」にこれほどまでに拘(こだわ)って来たのであろうか。サケ類は種の原点に回帰する事でサケである事を守り続けているのである。外国文化を融通無碍(ゆうづうむげ)に取り入れる様に見えながら科挙・纏足(てんそく)・宦官・割礼など日本に合わないものは上手に排除し、アイデンティティーを守っている日本文化の凄みに通ずるものがある。
 漢字の「鮭」は中国ではフグの事であるが、一般に「漢字」は輸入された言葉を表示する。「読んだら判る」が「聞いたら判らない」言語である。同じ様に輸入語であってもこれが西洋からだとカタカナ表示になる。一方、耳で聞いて判る大和(やまと)言葉は「ひらがな」で表示される。母が膝の上で我が子に昔話を語って聞かせながら音で伝えて行く言葉である。
 例えば衣・食・住を取り出して見ても「衣類・スーツ・きもの」「食料・フード・たべもの」「住居・ハウス・すまい」と我々は厳然と区別して使っている。
 輸入先ごとに異なった文字を振り分けて使うと言うのは恐ろしいエネルギーである。仲間に入れる様で最終的には仲間に入れない。永久に言葉の国籍を表示させて置くと言う強い意思表示が感じられる。
 どこからか聞える原始本能の呼び声に誘われるかの様にして川を上るサケの群れからも祖先の地に帰る事で種の原点を守ろうとする気迫が伝わってくる。

*資源としてのサケ    
       〜サケの主産地だった信州〜

 長野県更埴市の山懐(やまふところ)に東日本最大級と言われる森将軍塚が再建されている。古墳時代にこれだけ巨大な物を作る事を可能にした経済力の背景には全国有数のサケ漁獲量があったと推測されている。平安時代に律令の実施細目をまとめた「延喜式(えんきしき)」によると新潟、富山と並び善光寺平は朝廷にサケを貢納した主産地であった。このサケは官吏の給料としても支給されている。
 石器時代でも千曲川を遡(さかのぼ)った南佐久群北相木村の遺跡からはサケの骨がでる。サケは日本人の血肉を育てた魚である。江戸時代にも各藩はサケの種川を保護し、水戸藩では一番サケに2〜10両の褒美(ほうび)を出した。
 明治10年になると加賀藩生まれの関沢明清(あけきよ)がアメリカで学んだサケのふ化放流を始めた。これは瞬(またた)く間に全国に広がり明治12年には長野県でも天竜川、千曲川、犀川で放流が行われている(その後、野尻湖でも放流は行われた)。
 千数百年に渡りサケの産地であった信州からサケが消えたのは1936年(昭和11年)に飯山市に西大滝ダムが出来てからである。
 昭和7年でも千曲川、犀川からのサケ・マス水揚げ量は2万3千尾程度あったと推定されており、現在でも子供の頃に川を上るサケを捕まえた記憶を持っている人が信州には多くいる。
 全国の川から溯上するサケが消えたのは日本の経済成長が始まった昭和30年代である。成長の掛け声の下でダムが作られ、岸はコンクリートで固められ、水は濁り始めたのである。
 オイルショックで経済成長がマイナスになった昭和49年10月に岩手県の北上川支流に30尾のサケが戻って来た。これを鏑矢(かぶらや)に全国の河川にサケが戻り始め、日本沿岸でのサケ漁獲量が増大を始めた。2001年の日本のサケ類消費量は546千t(漁獲量211千t、輸入量335千t)で3.5kg のサケに換算して1億5千万尾である。国民1人当たり1尾以上のサケを消費している事になる。

*遡上のドラマ    
       〜日本人の忘れ物〜

 北海道の標津(しべつ)川の河口近くでサケの産卵を見た事がある。サケ留め柵で溯上を阻(はば)まれたサケの番(つが)いが4〜5日かけて作った溝に産卵し、卵に砂利をかけるため川底に身を打ちつけている所だった。
 雪融け水に生れた5cmたらずの稚魚は激流を下りながら多くが命を落とす。海でもトドやアシカに追われ数年後に帰ってくるサケは稚魚の1%弱と言う。この長旅から帰ったサケを銀毛のうちに捕獲しようと、定置網が待つ海岸線の向こうには夕餉(ゆうげ)の支度か数筋の煙が立ち上ぼる国後(くなしり)島が良く見えていた。雌サケの尾は裂け骨が見える。メスを守るため戦い続けたオスの身はボロ雑巾の様にズタズタである。死を前に残る力の全てで川底を打つサケの尾が鈍く銀色に光る夕暮れの川面の中に何時までも浮かんだり沈んだりしていた。
 河原には産卵を終わったサケの死骸が散乱していた。川に戻ったオスは銀の肌が黒・黄・赤の斑模様(ブナ毛)になり、背はセリ上がり、大きく裂けて曲がった口には牙が並び、黒縅(くろおどし)の鎧(よろい)武者を連想させる風貌に変わる。なぜか眼球だけをカモメに食われたサケの死骸は兜(かぶと)の下の髑髏(どくろ)首の様で戦国の戦場跡を見る如くであった。一方、川を上るベニザケの鮮やかな紅葉色はまるで緋縅(ひおどし)の武者である。サケとマスは全く同じで種に違いは無いが、マスの語源はマスホ(真赤)で身は茹でた海老・蟹の色に似る。サケ・マスは外洋を回遊する間に摂取した海老や蟹の色素(カロチノイド)を体に蓄積させて身の色を作る。
 故郷の川に戻り死出の溯上にいざ出陣となるとオスはこの蓄積した色素を身体の外周に移動させ緋色に変身する。メスは子供達に残してやるために腹に抱えた卵に色素の全てを移動させ自身の肉は白くポロポロになる。逆にスジコやイクラは鮮やかな朱色になり産卵を待つ事になる。
 サケの生き様は武士に似る。故郷(ふるさと)の川に子孫を残し死を選ぶ生き方は家名や血筋を重視し、継承の象徴である主君や家のために戦場に散る生き方である。日本では子供の数が減少中である。日本人は次世代のために生きなくなった様に見える。しかしサケの激しい生き様に感動を覚える人は未だ存在するはずである。自分だけの為に生きるのは意外に寂しく辛いものである。

*味覚としてのサケ    
       〜世界で好まれる味〜

 日本人の食生活や産業に大きく貢献しながらも裏方を脱し切れなかったニシンやイワシと違いサケはいつも日本人の身近にいた魚である。日本民話に登場する猿・狐・狸などが日本人にとって常にいきいきとした隣人であった様にサケも民話に多く登場し我々と活発に交流して来た。矢島神社(秋田県矢島町)に残る鮭石には大小十数尾のサケと思われる線刻があり、縄文時代に豊漁を祈ったものと推測されている。2千年前からサケは既に日本人の重要な生活の糧であったのである。
 カナダの魚類学者ニーブによると陸で閉じられていた頃の日本海がサケの起原と言う。例えばアメマスの分布はに日本海周辺に限られており、サケは日本が原点の魚かも知れないのである。その為かサケは祭礼の魚として重要で東日本の年取り魚である。
 日本経済が成長を始めた昭和30年代、上野の桜が咲き始める頃になると屋根に雪を一杯に乗せた集団就職列車が次々と駅に滑り込んだ。その年の大晦日、頬の赤さも取れ、土産を両手一杯に故郷の地へ向かう彼等の脳裏に浮かんだのは家族との団欒(だんらん)であり、年越しの食卓で湯気上げる鮭だったはずである。こうしてサケは夜汽車、北国、雪国、囲炉裏など日本人の好きな心象風景の一員に加わっていたのである。現在でも日本人のサケ好きは変わっていない。
 先進国が集中する北半球に古くから存在したので、余り魚を食べない欧州や北米でも親しまれてきた魚である(シューベルトの歌曲「鱒」はブラウントラウトという)。料理方法も洋風のムニエルから和風の鍋、茶漬まで実に多様性に富んでいる。また古代遺跡にサケの骨が少ない理由が「古代人は骨まで食べてしまったから」と言われる様に、サケは無駄なく食べられる。またアイヌは靴をサケの皮で作った。
 東日本では歳暮に尾頭付(おかしらつき)の新巻鮭を送る習慣が今も健在である。日本の食事が出来るだけ「包丁・箸・口」を使わないで済むものに移行している現在では、この風習は日本の包丁文化の生命線でもある。サケのおろし方は意外と簡単である。是非今年は家庭で試して欲しい。包丁を入れないままで供される家庭料理は寂しい。焼き魚は身を上手に箸で割った瞬間に立上る香りが美味しい。何度も咀嚼(そしゃく)するから旨みは滲(にじ)み出すのである。それに最近は顎(あご)を使わないと歯並びが悪くなるだけでなく、頬の筋肉が発達せず近視になると言われている。残念ながら最近は包丁も箸も口も殆ど使わず食べられるイクラ(ロシア語で卵の意味)の伸びが一番良い。
 イクラ寿司は意外に新しく一般に普及したのは昭和40年代からである。人造イクラは一時話題になった程は使われていない。心配なら寿司屋の熱い茶の中へ一粒ソット入れて鶏卵白のように白濁したら本物である。最近は冷凍や生のサケを贈る事が盛んになったが、塩を振るのはサケの保存の為ばかりでは無い。塩がサケの身の蛋白から旨みを引き出しているのである。

*おわりに

 サケは正月の魚である。北国の人々は店頭に並ぶサケに年の瀬を感ずる。正月にサケを食う習慣は単にサケが初冬に取れる魚だからでは無いだろう。儀式で食う物には必ず意味があり、その生命が持っている力や神秘を体に取り込み継承する行為と思われる。
 正月に家の入口に飾るしめ縄は蛇の交尾の姿と言う。神棚の鏡餅は蛇身(かがみ)餅で蛇がとぐろを巻いた姿と言う。いずれも子孫豊饒の象徴である。その意味では数の子もゴマメも多産への願いであろう。日本人にとって正月は自分が過去と未来の結節点に存在する事を改めて確認する瞬間である。人々は自分を誕生させるために延々と続いてきた祖先からの命の連鎖に感謝し、未来に向かい健康で数多くの命を次に残す事を神に約束する。正月の晴着は先祖返りである。先祖の生活をしのび、家の紋を着る。晴着を着て先祖を思い、しめ縄に多産を祈り、蛇身を食って強い生命が我が身に乗り移る事を願うのであろう。
 サケも同じである。子孫の継承のために個を捨てるサケの生き様を自己のものにしたいと人々は思い、正月に故郷に戻ったサケを食ったと思われる。この行為により人々は自分の命が永遠の鎖のなかの一つだと確信したのではないのだろうか。種の連続性・継続性の中に己を置いて生きる事に全てをかけるサケの生き様は現在でも我々のモラルの奥深くに響くものがあるだろう。

全国中央市場水産卸協会『全水卸』2002. 11 より)

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