豊葦地区 樽本の歴史

現在の新潟県妙高市豊葦地区は斑尾高原沼の原湿原から関川に流れ込む樽川(現在地図上には土路川と記入されている)に沿って上流から上樽本、中樽本、下樽本、土路という集落が現存しております。

この地区の起源は平安時代、今から1000年前、古代の官道「東山道」の支路が整備された頃に、先人たちが入植してきたと伝えられております。
その後源平の時代を経て、また戦国時代を経て落武者などにより入植者が徐々に増えて来たものと考えられます。

この地区の歴史的資料は少なく、特に明治35年の春の大火により、唯一歴史的資料が集められていたとされる中樽本の公民館が、中樽本総数25軒の内、20軒と共に焼失し、更に解明が困難になっている状況です。


美しい風景の中に静かに佇む豊葦の郷

豊葦地区 樽本の創成期
(700年〜1100年)
豊葦地区の起源に付きましては、文献もなく解明はできませんが、今から1000年前には先人たちが住んでいたようです。

源平の時代から戦国時代にかけて、落武者などが順次入植し、住み付いていったとも考えられております。

この地域は主要道路のあった関山付近からは、徒歩でも10時間はかかる山深い奥地で、冬には7mから10mの雪が積もり、自然環境が防衛戦となり、入植者(落武者)には都合良い土地であったと推測されます。

またすぐ裏は信州につながっている事も察知しての入植と考えられます。

また土地も肥えており、焼き畑でも充分作物も出来、周囲の自然環境にも恵まれていた事が幸いしたと考えられます。

この時代にどのような理由で入植してきたかは、はっきりした文献もなく、いつだれが、どこから、どのように入植してきたかは、推測にての文章になっております。

一つ言える事は古くから樽本峠の上部に斑尾山があり、その山麓には古道が引かれており、この道は古代(701年に)の律令による官道の一つで、東山道(あずまやまみち)と呼ばれ、信濃から越後国府に至る北陸路であったと推測されております。

平安時代から鎌倉時代、その道の重要性から多くの集落が形成されていったと思われます。

往来の多さや、当時の仏教布教などにて多くの寺院が建てられた事も記録に残されております。
(注)東山道(とうさんどう)は古代の国の呼び方で、国と国を結ぶ幹線路は東山道(あずまやまみち)と呼ばれていたといわれております。
701年に古代の律令により定められ、令制東山道と呼ばれ、それ以前は古東山道と言われていた。

現斑尾高原の沼の池(現在希望湖)や沼の原湿原などにはその当時すでに沼部落、奥沼部落はこの時代に存在していたと推測されております。
(妙高村史より・・・信州柳原村の越後境に沼という部落があり、またその奥20町ほどの南の斑尾山山麓にも古代集落があり、この地を奥沼と称していた。

伝説によると奥沼は当時(推測800年から1200年頃)70戸ほどの集落で萩原宿(新宿)と呼ばれ、その当時はかなり繁盛していたと言い伝えられております。
それ以前は旧沼地域に萩原宿はあったと云われております。

その後気候の変動や関山、田切方面の往来がだんだん盛んになって来た事などにより、次第に寂れて行ったと伝えられております。

その祭居住していた八人の僧侶が経文や仏像などをこの地に埋葬して退散したと言われております。1293年(永仁元年)の事と伝わっております。)

現在斑尾高原には八坊塚という地名が残されておりますが、その事によるものと推測されております。

沼集落は江戸時代の終わり頃には十数戸が存在したが、漸次衰退し、その後は3戸に減少し、今はその形跡も見られない。

この地域はこの時代、豊葦村、柳原村、飯山村の山間地域から斑尾山の東麓を経て、長野県上水内郡古間村荒瀬原集落から上水内郡三水村芋川に出る山道を「斑尾街道」と呼び、もっとも古い古道であったと云われている。

三水村芋川では「塩街道」とも呼ばれておりました。

源平の時代
(1100年〜1300年)
平安時代は795年から平家が滅亡する1185年まで約390年続いて来ました。その平家滅亡前に、豊葦地区に入植者がいたかどうかは不明ですが伝説、国碑によると平安時代後期には入植者がいたと推測されております。

平家滅亡後には平家狩りを逃れるために、この地域に落武者が落ち延びて来た事は推測をされております。

また一部には樽本地域に多く存在する木賀姓、小出姓は源平時代には先祖たちは名のある武将として活躍していた事も推測されております。

この時代に木賀姓、小出姓の先祖がすでに入植していたかどうかは不明です。


室町・戦国時代
(1390〜1600年)

豊葦地区は南北朝時代の正平21年(貞治5年、1366年)、上杉憲顕の所轄以来幾多の変遷を経て、高田県の所管となる。つぎに柏崎県に編入される。

また正長年間(1428年〜1429年)には信州奈良村と樽本の国境を両国の立会人のもと、これを定めたとされております。

1598年豊臣秀吉が死去し、その後豊臣軍と徳川軍との戦になり、関ヶ原の合戦から大阪冬の陣、そして1615年大阪夏の陣と戦が続き、豊臣の時代が終了となる。
関ヶ原の合戦のあと、豊臣方の落武者として樽本に入植してきた人もいたような形跡が残されております。

また小出家の3代目の小出吉親氏が1630年頃、信濃守に国替えをした後、守り本尊の観音像(信濃の国、田上の分霊といわれており)をこの地に来る時に一緒に来たものと推測されております。(観音像は現在上樽本のもぐさ観音堂の中に安置されております)

樽本城は戦国時代に築城された山城で、所在地は大字樽本甲字城(現土路寄りの下樽本入り口附近)に所在しました。標高600mの突き出た尾根の先端部を普請したもので、主郭部分には現在「薬師堂」が祀られています。

樽本城は信越国境に近い事から重要な役割を果たしていたようでした。城主には上杉謙信の臣下で「樽本 弾正」と伝えられております。

江戸時代
(1603年〜1867年)
樽本村は江戸時代(1603年)から1889年(明治22年)まで呼ばれており、頸城郡に属していました。

江戸時代初期は上樽本村とに分かれていましたが、のちに樽本村一本となる。
1684年(天和4年)の「越州四郡高帳」には樽本の名が残されている。

始めは高田藩領に属し、1681年(天和元年)からは幕府領となる。

樽本は信州との国境にあたり、口留番所が置かれていた。

この頃の生業は新炭生産が主な仕事となっていた。

明治、大正時代
(1867年〜1925年)
1873年(明治6年)柏崎県が廃止されて、新潟県の所管となる。

次いで1884年(明治17年)には戸長役場小轄区域改訂のため、大鹿村ほか五か村組合に編入された。

樽本村は明治12年からは中頸城郡に所属、明治21年には戸数139戸、人口は806人と村史には記録されている。

翌年の明治22年には豊葦村の大字となり現在に至る、豊葦村大字樽本甲(下樽本)、豊葦村大字樽本乙(中樽本)、豊葦村大字樽本丙(上樽本)に分かれる。


明治19年には上樽本の「木賀三四郎」という人が、「峠隧道用水」を提唱し、明治20年に建設工事を開始し、明治26年にこれが完成した。これにより樽本地区の水稲栽培およびその他の産業の条件が改善され、樽本地区の農業が大いに発展をしたと言われております。
木賀三四郎氏は明治21年には豊葦村の村長にもなっております。
(この峠隧道用水の事業費については木賀三四郎氏が私財をなげうって行われた)

明治7年(1874年)豊葦小学校開設(板倉郷大一区小一区四番公立樽本校)
明治16年(1883年)土路小学校創立
明治35年(1902年)土路小学校新築
明治35年(1902年)中樽本において大火事が発生し、民家25軒の内20軒が焼失する
その際、公民館も焼け、歴史資料等の重要な書籍を失う。
大正13年(1924年)豊葦小学校が豊葦尋常高等小学校となる

大正時代の終わり頃には樽本に電灯がつく。

この頃の楽しみの一つに「高田ごぜ」の来訪があった。三味線に合わせて唄い、踊るこの芸能は、楽しみのない村人にとっては唯一の娯楽であった。
酒を飲み、唄い、夜のふけるのも忘れて、楽しんだと言われる。
昭和の初期頃までは樽本に来ていたと言われております。