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―― 半音下がっているから半音上げる ――

 『山月記』や『李陵』の代表作で知られる中島敦の顔写真を見ていたら、中学生の時にお世話になった音楽の先生を思い出した。

 滝元という名のその先生は、中島敦を見て思い出すように髪はぴっちりポマードの七三分け、度の強いメガネをかけた面長の 顔で、どうひいき目に見ても運動神経のよさそうなタイプではなかった。中島敦でピンと来ない人はMr.オクレが指揮棒をビュンビュン振っている姿を 思い浮かべて欲しい。それが滝元先生の姿である。そして、そこから指揮棒を取ると中島敦になる。

 思えば、小、中学校に通っていたこの9月下旬というのは、音楽会の行われる11月に向けて練習を開始する時期だったろうと 記憶している。私の通っていた学校は小学校で4クラス×6学年の24クラス、中学校も9クラス×3学年で27クラス、というけっこうな 大所帯であった。クラス毎に発表される歌と演奏の二部構成、さらには学年毎に発表される歌をすべて聴かされるのが音楽会の通例で、 今思い出してもコントラバスのように気分は重たくなる。

 その辛い音楽界の舞台に立つべく、中学の頃は滝元先生の指揮のもと、大きな口を開けて私も課題曲を歌わされたのである。

 この滝元先生が指揮をする練習には“決め台詞”みたいなものがあって、練習も終わりに差しかかろうかという頃になると必ず、

「おい皆、半音下がってるぞ。もっと腹から声を出して! 疲れているのはわかるけど、これで終わりなんだから。さあ、 気合入れていこう! 腹からね、腹から。半音上げて!」

 そうして、さっきと何ら変わることなく歌い上げると「よーし、今のはよかったぞー」となり、「今の感覚を忘れないように もう一回いってみよう!」とオチがつく。

 今になって考えてみると、半音下がっていた原因は滝元先生が生徒のテンションを下げていたからではないかと思うのだが、 芸術畑の人の思考というのはいつの時代も理解し難いものがある。

 そういえばいつかの授業で、

「私はね、夜になると大きな声を出して歌いたくなるんだよ。だから私は、夜はいつも大声で歌っているんだ。ラララ〜♪

 などと言って、クラス中の失笑を買ったということがあったが、その発言からクスリの影がちらちらと垣間見えないこともない。



 そんな滝元先生の話は横に置いといて、話は小学校の時に移る。

 小学校にはとりわけ変わった先生というのはいなかったが、変わった歌唱法というのはあった。

 今はどうだか知らないが、私が小学生の頃というのは「子供はこう歌うべき!」みたいな決まりがあった。その子供が歌うべき姿を 簡潔に説明すると、顔には満面の笑みを浮かべ、体を大きく横に揺らしてリズムをとりながら歌わなければならない――である。アホらしいと言えばその通りなのだが、 その時はこれが“常識”で、4クラス×6学年の全24クラスのすべてがこの歌唱法を取り入れてメトロノームのように揺れていたのである。

 この横に揺れながらの歌唱法。『ウン パッパ』や『歩いてゆこう』などの合わせやすい曲はいいが、テンポのもっと速い 曲にはどうやって合わすのだろうと常々疑問に思っていた。千手観音のように1人の後ろに5人くらい並んで一斉に揺れればテンポよく 揺れているように見えるだろうが、それでは『欽ちゃんの仮装大賞』である。音楽の先生に訊こう、訊こう、とは思っていたのだが、 つい訊きそびれてしまって今に至る。

 これは余談だが、合唱部の吉沢恭子さんは長時間横に揺れながら歌っていた為、遠心力で身長が2cm伸びたらしい。

 そんなまことしやかな噂も立つ横揺れの歌唱法であるが、とかく子供を取り巻く音楽の環境というのは滑稽なものが多い。

 それは楽曲にも言えることで、私は過去に友人から「今度『市中大会』に出場するんだけど、男子部員が足りないから助っ人として参加してくれ」と頼まれて合唱部に 仮入部したことがあるのだが、課題曲を歌えなくてやむなく出場を断念したという思い出がある。

 べつに私の歌唱力に問題があったというわけではなくて、問題があったのは課題曲の歌詞である。

 曲のタイトルは忘れてしまったが、歌い出しはこうだ。

ポプラの木には ポプラの葉
何千 何万 芽を吹いて
緑の小さな 緑の小さな
手をひろげ

 私はこの「ポプラの木には ポプラの葉」という当たり前のことを書いた歌詞に笑いのツボを刺激され「ポプラの木にはポプラの葉、って当たり前じゃねぇーか! ハハハハ……腹いてぇ」と、 その後をまったく歌えなくなってしまったのである。ポプラの木に松の葉がなって堪るか。

 それが原因で合唱部の部長から「ちょっと! ふざけてないで、ちゃんと歌ってよ!!」と叱られ、あえなく部を去ることになった。

 今でもたまにあの時のことを思い出すのだが、どう考えても悪いのは私じゃなくてポプラの木の作詞家である。 機会があったら当時の部長をつらまえて弁明をしたいところだが、あれから月日も経って当時の部長もいい大人になっているだろうから、 ふざけた大人の私との接点は全くなく、釈明の余地がないのは残念でならない。



 かようにして学校で習う音楽にはすこぶる相性の悪かった私だが、そんなしがない男の鬱憤も露知らず、これからの季節も例年通りに 日本のどこかでは音楽会が催されるのだろう。

―2002年9月27日―

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