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―― 迷信あれこれ ――

 私は普段の生活の中にジンクスをふくんだ行動や規律を――少なくとも意識的には――取り入れることなく生活をしている。これはテレビや新聞でそういったものを見聞きするにつけ、「こんなことをいちいち守っていたら面倒で仕方がない!」と常々いたく感じているからである。ジンクスなんて物は無いに越したことはない。

 それとは別の問題で、私には体に染みついて離れることのない規律がいくつかある。

 挙げると、

 ・夜に爪を切らない。
 ・お茶は二杯以上飲む(一杯でやめない)。
 ・お米を粗末にしない。
 ・親を決してまたがない。

 といったものである。

 上に挙げたものがジンクスとどのように違うのかを説明すると、お気づきの方もいらっしゃると思うが、これらは全て『迷信』と呼ばれる類のもので、それぞれに「夜に爪を切る――親の死に目に会えない」「一杯茶――縁起が悪い」「お米を粗末に扱う――目がつぶれる」「親をまたぐ――出世しない」となっている。

 迷信とジンクスの決定的な違いは、古くから親から子へ(または大人から子供へ)口伝いに伝えられてきたものか、人ひとりが己の人生において勝手に作り上げたもの(または限定的な分野の中で派生したもの)かの違いである。私は幼い頃からこの『迷信』をふくんだ小言八百を口酸っぱく母親や祖母から聞かされ続けたため、体に染みついたこれらの言いつけを自分の意思とはうらはらに守らざるをえない体質になってしまっているのだ。なんだかパブロフの犬のようで悲しい。

 幼い頃は「うん、うん」と真摯に聞いていたこれら迷信だが、大人になった今に改めてほじくり返してみるとこれはなかなか面白いもんである。

 私の頭の中にあるものをいくつか挙げてみると、「おへそを出しているとカミナリ様に取られてしまう」「火遊びをすると寝小便をする」といった有名なものから「夜蜘蛛は親でも殺せ!」なんて過激なものまである。それから「みょうがを食べ過ぎると物忘れがひどくなる」なんていうのは、みょうがを作っている農家からクレームが来そうな迷信である。もちろん論拠はない。それから……と、まだいくつか聞かされたはずなのだがちょっと思い出せない(そういえば、さっきみょうがを食べたな……)。

 こういう時にさっと調べられるインターネットというものは本当に便利である。すぐに欲しい情報を取り出せるインターネットは人間のある能力を損なうきらいがある、なんてことを言う人がいるが、図書館へ出かけずネットで調べ物をすることによって損なわれる人間の能力なんて足の筋肉くらいである――なんてことを言っている間に、もう調べることができた。

 「二度あることは三度ある」が迷信の類というのは目から鱗である。私としては教訓的な諺のイメージが強かったのでこれは新しい発見だ。他にも「夜に口笛を吹くと泥棒が入る」とか「油揚を持って山に登るとキツネに化かされる」とか、そういえば昔言われたなぁというのがいっぱいある。

 こうして見ると、迷信というのはどうも「死ぬ」だとか「地獄に落ちる」だとかの不幸な末路をたどるものが多いようである。やはり子供を戒めるための迷信だから、なのだろう。

 しかし、中には子供を戒めるためとはとても思えないものもある。


  柿の種を囲炉裏にくべてはじけた種に当たった人は、臆病になる


 これはおそらく柿の種に当たった本人が書き綴った只の事実だろう。柿の種をあぶっていたら熱々の種が顔に直撃して痛い思いをした。それ以来囲炉裏で柿の種をあぶるのが怖い。私も揚げ物の最中に跳ねた油で火傷をした経験があるのでわからない話ではないが、それにしたってもうちょっと創意工夫が欲しい話ではないか。「囲炉裏に柿の種をくべると“ポチ”が“ペス”になる」くらいの彩りは欲しいところである。しかし柿の種が直撃したくらいで人生そんなに悲観的にならなくてもいいじゃないか、と思う。

 他にも「生米を食べるとバカになる(米を生で食べる奴はもとよりバカだ)」とか「皿で水を飲まない(当たり前である)」とか素っ頓狂な迷信はけっこう多い。こういった迷信をいちいち調べて見てまわるというのはなかなか面白いものなので、皆さんも時間に余裕があるときはちょっと調べてみるといいですよ。



 こうして迷信を思い返したり調べたりしていると子供の頃には見えなかった親の視点というものが見えたりしてくるのだが、こういった話を交えて子供に注意をする昔の親と言うのはずいぶんと心に余裕があったんだなぁと思う。

 今の時代はどうだか知らないですけど。

―2003年2月21日―

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