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―― 日常的ネッカーの立方体 ――

 あるひとつの物事に対してある違ったアプローチをすることで、それまでの印象とはがらりと様相が変化してしまうということがある。簡単な例をつけくわえると、車の免許を取るまでは細い路地ですれ違う車に嫌な顔をしていたが、逆の立場になってみるとその歩行者こそがじゃまに思えたり、国語で習った夏目漱石にはなんら感銘を受けなかったが、ふと立ち寄った本屋で手にした夏目漱石には千円以上の価値を見出せたり、「だめ! だめ! いやぁぁぁ!!」 と言うわりには実は満足していたり。スイスの地質学者ルイス・アルバート・ネッカーが1832年に紹介した、かの有名な『ネッカーの立方体』なんかはそういった人間の感覚の象徴的なものである。

ネッカーの立方体
図-1 ネッカーの立方体

 *上の図を眺めていると立方体を上から見下ろしている絵になったり、下から見上げている絵になったり、視点がコロコロ変わる。

 ここから展開する話の流れとしては自分の経験した恋愛を引き合いに「恋をすると世界が一変する」だとか「好きな人ができると自分を客観的に見つめなおすもんだ」とかなんとか書いていくと文章としてのおさまりは良さそうなのだが、あいにくとそういった過去の恋愛体験から物事の印象の変化を語れるほど私は恋多き男ではない。私は私なりに『トマトジュースの飲み方』や『道端で干からびたミミズ』などを引き合いにしながらこのエッセイを進めていこうと思っている。どうしようもなく暇な人だけお付き合いください。


 トマトが嫌いな人というのは相当な数にのぼると思うが、私なんかもそんな多くのトマト嫌いのひとりだったりする。トマトとの楽しい思い出など何ひとつなく、家族の間をたらい回しにしたという暗い記憶しかない。おそらくトマトの方も私によい印象は持っていないはずである。

 しかし、トマトジュースとなると話は別で、これはかなり好きな部類に入る。トマトジュースもかなり私を好いているに違いない。

 同じトマト味でありながら一方は嫌いで一方は好きというのは我ながら矛盾した嗜好だなあ、と思う。例えこの世に『ネギジュース』や『ピーマンドリンク』なるものが存在していたとしても私は絶対にその飲み物を好きになることはないだろう。

 でも現実として私はトマトジュースが好きなのである。不思議なことに。

 これはひとえに私のトマトジュースの飲み方に秘密があるようなのだ。私のトマトジュースの飲み方は特殊で――わざわざ他人にトマトジュースの飲み方を訊いて回ったわけではないので正確なところはわからないが、おそらく特殊だろう――上あごとへらでトマトジュースを“漉す”ようにして飲むのである。これはちょうど赤ちゃんがミルクを飲むときに舌を蠕動運動させるのと同じ動きである。理由はわからないが、このようにして飲むととても美味しくトマトジュースを飲めるのだ。私はこの飲み方を幼い頃に発見し、以来、この飲み方で今日まで美味しくトマトジュースをいただいている。

 トマト本体の方もこのように美味しく食べる方法があればいいのだが、こちらはこれといった食べ方を見つけられずにいる。多くの物事がそうであるように、そうそううまくは行かないようである。

 このように日常には物事の印象ががらりと変わることがある。

 私の住む地域には昔に比べて減ったとはいえ、まだ幾分か田圃がある。視線を道端に落とせばそこから這い出したであろう蛙なんかがピョコピョコといたりする。そしてそこに紛れてミミズの死骸なんかもちらほらとあったりするのだが、私は過去にとても不思議なミミズの死骸を目にしたことがある。

 溝の横で事切れていたそのミミズは、体が湿っていた時に付着していたであろう砂粒がアスファルトに剥がれ落ち、かんかん照りの太陽に容赦なく水分を抜き取られ、カラカラに干からびていた。その姿はまるで乾燥した梅干しの種を縦に引き伸ばしたかのような形であった。

 不思議だったのはそのミミズから剥がれ落ちた砂粒である。

 これはもう偶然の産物なのだろが、その砂粒はミミズを中心に見事な円をアスファルトに描いていたのである。それはコンパスで描いたかのような本当に見事な円で、しかもその円の内部には一粒も欠けることなく均等に砂粒が敷かれていたのである。それはあたかもまるい砂粒の絨毯の上にミミズを祀っているかのような。「ミミズは畑を耕すとはよく聞くが、このミミズは余程たくさんの畑を耕して天に召されたんだろうか」等とありもしないことを考えてしまうほど、そのミミズに神々しさを感じたのは事実である。そしてミミズに対する認識も変わった(「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、皆々生きているんだ」というあの歌を深いところで実感した)。

 日常における認識の転換というと、とかく恋愛が詩やドラマに取り上げられるが、食べ物や道路の道端、身のまわりの日用品や些細な人間関係でのできごとなど、恋愛ほどダイナミックではないにしろ、多くの認識の転換を我々はくぐり抜けているはずである。そして、そういった多くの日常的ネッカーの立方体は我々の目の前でまだまだ気づかれることなく息を潜めているようである。


 このエッセイを“トマト〜ミミズ”と書き綴って来たのだが、読み返してみると『ミートソース・スパゲッティー』を食べている人に非常に失礼な内容ともとれなくもない。

 しかし、結果そうなっただけで、作者にはそういった意図はまったくございませんのであしからず。

―2003年5月31日―

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