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―― 夢見がちなハンガリー人 ――

 何気なしに階段を上がっていたら段から足を踏み外し、驚いた拍子に夢から覚めた! という体験は、これを御覧になっている多くの方々が体験なさっていることだろう。“階段”の部分は谷でも飛行機でも人の道でも何でもよい。私もよく夢の中で醜い顔になっている自分を鏡で見て飛び起きるということがある(その後、寝室にある大鏡で自分が端整な顔立ちのハンガリー人であることを確認してホッと胸をなで下ろしている)。

 それでは現実の世界でありながら何かの拍子に夢から覚めたという方はどのくらい居るだろうか。なにやら哲学的な質問に見えるが、簡単に書くと「歌手を夢見て田舎から上京。自分はきっと歌手になれるものだと思っていたが、現実の厳しさに己の身の丈がよくわかった」みたいなことである。

 これには死ぬまで気付くことのない人もいるだろうし、嫌というほど現実を見てきた方もいるだろう。それに気付くことが必ずしも幸せということではないし、気付かないから不幸せということもない。私は小学4年生の頃に建築会社の資材置き場で火事騒ぎを起こした際、それまで自分の人生の中において無縁だと思われていた災害が実はTVタレントよりも身近な存在であることに否応なしに気付かされたのである。それは正に私が夢から覚めた瞬間であった。

 それまでの私はこれといった根拠もなく、自分はこのまま何事もなく平凡に中学、高校、大学と進んで行き、それぞれの学校で1人ずつ彼女が出来て、大学の夏休みに原宿をぶらぶらしていたらジャニーズ事務所にスカウトされ、晴れて芸能界にデビューするんだろうなぁ――くらいに考えていた。

 しかし現実は違い、私は火事を起こして今や自分のサイトの掲示板への書き込みに対して、

「チンポコーノ!」

 とレスをしてしまうただのアホ管理人である(まだ夢から覚めていないという話もある)。

 自分の頭で認識している世界が必ずしも現実とは言えない事実。

 思うに、現実を知るということは同時に己を知ることにも繋がるのではないだろうか。現実を的確に捉えることのできる人というのは、その現実の中での自分の位置をしっかりと把握して自分の成すべきこと、自分にできることをしっかりとやる人が多いように思う。逆に現実を見られない人というのは自分にできないものにまで手を出したり、筋違いなことに腹を立てたり、とんちんかんな行動で回りに溜息をつかせる人が多いようである。

 ありのままの自分を見るというのはとても苦痛なことで、とかく人は自分の都合のいいように世界を解釈したがるものである。ありのままの現実を見、あるがままの自分を受け入れることができたのなら、もっと自分や自分を取りまく環境を素直に好きになれるのではないか――と夢見がちな私は思ったりするのだ。

 取り敢えずは私も自分の都合のいいように物事を解釈することをやめることから始めてみようかと思う。



 これはつい先ほど気付いたことなのだが、どうやら私はハンガリー人ではないようである。

―2003年8月28日―

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