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―― ココロ広きヒト ――

 私生活で行き詰まりを感じたり嫌な出来事に出くわしたりする折、私は海へと車を走らせ、広大な海の砂浜に佇む。そして、水平線に溶けていく夕日を眺めながらこう思うのだ。

「ああ……、この海のように広い心でありたい」


 いつからだったろうか。幼い記憶を辿ってみると「人の失敗を許せる心の広い人間になりなさい」そう言われ育てられ、それは大人になった今でも私の中にある“常識”の一郭として存在する。それは「パンツには必ず自分の名前を書かなければならない!」という世間一般の常識と同じように、ごく当たり前の事として私の中に存在するのである。以前、プールで着替えをしていると数人の小学生にパンツを指さされて笑われたということがあったが、その時は日本の常識の崩壊というものを肌で感じて愕然としたものである(公共施設での落し物が一向に減らない訳である)。

 そんな親のしつけからか、私は常日頃、他人に対してはかなり寛容な態度で接することを心掛けている。

 先だって仕事の一服にとジュース代として渡した1000円をまるまる友人に取られた時も、私が食べようと買っておいたチョコジャンボモナカを弟に食べられた時も、譲ったつもりは毛頭ないのに隣の車線から割り込まれた車にハザードで感謝のサインを点灯された時も、学生時代に隣の女子が騒いでいたのに私が先生から「静かにしろ!」と注意された時も、保育園の時分にブロッコリーが食べられなくてお昼寝をさせて貰えなかった時も……数え上げたらきりがないが、私は他人に寛容であることを忘れなかった。

 しかし、そんな心の広い私にもどうしても許せないものがある。

 それは好きな子が不意にした“オナラ”である。

 これを読んでいる皆さんにも経験があると思うが、笑った拍子、若しくは立ち上がろうとした拍子に思わず「ブゥッ!」と出てしまう、あの場面での屁である。

 オナラをすることは何ら罪に問われることでもないし、責め立てられることでもない。オナラは健康な人間だったら誰だってすることなのだ。私だってするし、家族も皆する。夏目漱石の小説の登場人物である先生も放屁なされていたし、母の実家で買っていた犬もオナラをしたことがある。

 それはわかっている。オナラをして1番恥ずかしいのは誰でもないオナラをした彼女自身である。それもわかっている。それなのになぜ自分はそのオナラを客観的に受け入れることが出来ないのだろうか。あまつさえ自分の好きな女の子なのに。ああ、自分はなんて心の狭い人間なんだろう――と考えれば考えるほど、気分は沈んでくる。


 私生活で行き詰まりを感じたり嫌な出来事に出くわしたりする折、私は海へと車を走らせ、広大な海の砂浜に佇む。そして、押し寄せる波に浮かぶ白い気泡を見つめながらこう思うのだ。

「ああ……、好きな女の子のオナラを許せるような広いここになりたいな」

 ……と。

―2003年11月9日―

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