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―― スキーを好きではないことについて ――

 私は冬場のスポーツの王道であるスキーの面白さを今ひとつ理解することができない人間である。TV画面や周りの人間がスキーやスノーボードに興じている姿を眺めていると、自分は人間が楽しめるであろうひとつの行為を少なくとも楽しむことができないんだなぁと、なんだか損をした気分になってくる。人生とは斯くて残酷である。

 とは言え、私もこれまでに何度かスキーをする機会はあった。その都度スキーをエンジョイしてみようと努力はしたのだが、

「この寒風吹き荒ぶ雪山に放り出されて、一体オレは何を楽しめばいいのだろうか?」

 という疑問が頭から付いて離れず、スキーを楽しむという心境にまでは至らなかったのである。

 思うに、人間というのは高所から滑降することにより快感を得ることができる生き物である。それは幼児が滑り台で楽しそうに遊んでいる姿からも容易に推測できる。つまりは、私がこのスキーというウィンタースポーツを楽しめない理由には“滑降する”という行為に原因がある訳ではなく、スキーを取り巻くその環境に原因があると考えられるのだ。



 私が初めてスキーというものを体験したのは10歳の頃に小学校が催した『スキー教室』に参加した時だったと記憶している。ちょっと足を延ばせばスキー場があるという環境に住んで居たため、それまでに幾度となくなくスキー場に行ったことはあったのだが、本格的にスキー板を履いて滑ったのはこの時が最初だった。

 さて、このスキー教室では各人の腕前によってそれぞれにクラス分けがされていた。上から『上級』『中級』『初級』『超初級』の4つである。カリキュラムを円滑に進めるためのこのクラス分けであるが、当時の私は初めてスキーをするクラスよりも下にある『超初級』の存在意義が不思議でならなかった。今になって考えてみると宗教上の理由でスキーを禁止されていた児童がいたのかもしれないし、「お兄さんが受験の真っ最中で……」なんて家の子もいたのかもしれない。果たしてスキーを御法度にしている宗教がこの世に存在するのかは私の知るところではないが……。

 話をスキー教室に戻そう。

 スキーを教わったことのある方ならご存知だとは思うが、初心者がスキーを始める際にまず教わることはゲレンデでの“転び方”である。「ようし、スキーを楽しむぞう!」と意気揚々で乗り込んできた初心者はまずここで出鼻を挫かれる事となる。当時の私はこれをどか雪の降りしきる中で行ったのだが、「オレはわざわざこんな寒い雪山に金を払って転びに来たんじゃないんだ!」と怒りに満ち溢れながら、吹雪の中を只ひたすらに転倒していたのを昨日の事のように覚えている。

 いきなり“転ぶ”というネガティブなことを教わり、次に教わるのがスキー初心者の代名詞でもある『ボーゲン』である。

 ボーゲンのことを 特売 と勘違いしている方はまず居ないと思うのだが、一応説明すると、これはスキー板の後ろを外側へと開きハの字の形を保ったまま滑る様を指して言う。


ボーゲン
図-1 ボーゲン

 実際にやってみればわかることだが、このボーゲンというのは見た目以上に恥ずかしい滑り方である。特に格好よく滑ることを夢見ていた初心者にはそのダメージも大きく、足を内股にしてスピードを減速しつつ初心者まる出しで滑るというのは、恥ずかしいやら、屈辱的やらで、なんともやりきれない気持ちになる。この先の私の人生にどんなことが待ち受けているかはわからないが、「これまでの人生で恥ずかしかったこと“Best20傑”を挙げろ」と言われればランクインは堅いだろう(当時私がとろとろとボーゲンで滑っている横を、親友の林田君が直滑降で気持ち良さげに滑り去って行った時の淋しい気持ちを、私は決して忘れない)。

 その後、あらかた滑れるようになってから乗ったリフトにも(運ばれる場所もそうだが値段も高くて)不満を抱いたし、上に登ったら登ったらで、横殴りの雪に視界をさえぎられて友達2人と置き去りにされるしで、スキーというスポーツの辛さを十二分に堪能したのであった。

 恐らくこのスキー教室という滑り出しでつまずいた事がトラウマとなり、未だに私はスキー場に行くのが億劫でならないのだろう。



 スキー場が近くてウィンタースポーツの季節なのだから、せっかくだったらスキーなりスノーボードなりを始めてゲレンデが溶ける程の恋でもしてみたらいいと思うのだが、今の心情からすると、私とスキーの雪融けはまだまだ先の話である。

―2003年12月9日―

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