「なぁ、なぁ、聞いてくれよ。俺んちの父ちゃん、実は“高橋名人”なんだぜ! なに疑ってんだよ。ゼッテー本当だよ。なんなら命賭けるぜ! ああー、マジで、マジで…………なーんつってな。本当はうっそー。……えっ? 命賭けるっつたんだから死んでみせろって? ハイ、ハイ、わかりましたよ。いいか。今からこのノートに書く文字をよく見てろよ。(ノートに鉛筆で文字を書き始める)…………はい! 命が書けましたぁー!」
というやり取りを過去に交わして殺意を抱いたことのある人間は私だけではないと推測する。
この「賭ける」と「書ける」の同音意義を用いた言葉遊びは小学生2年当時に私のクラスで大流行した遊びである。こういった他人をひっかける遊びというのは自分がやられると他人にも試してみたくなるのが人情で(子供となれば尚のこと)、当時はここかしこで「命賭けるぜ!」などと物騒な台詞が飛び交っていたものである。遊びの末期には大方の人間がその対応にも慣れて「命書けるんじゃなくて、賭けるんだよな!?」と念を押すようになったのだが、それにも怯むことなく「ああ命賭けるよ。じゃあ、ホレ、殺せるものなら、殺してみろよ!!」とのたまう兵も現れた。小学生とはいえヤクザな遊びである。
こうした同音意義を何時からともなく私達は無意識のうちに使い分けている。思えばその昔、自動車教習所から帰ってきた母親が、
「今日一緒に教習所に通っている鈴木さんが実地試験の運転で落っこちゃってさ。その話を聞いてたら、私も不安になってきちゃったよ……」
と父親に愚痴るのを聞いて、
「そうか。鈴木さんは車の運転の試験で谷底へと転落したのか。車の免許を取るのって大変なんだなぁ……」
と、落ちるを“落下する”としか認識できなかった幼い頃の私が懐かしくも微笑ましい限りである。今なら「鈴木さんはまだまだ運転技術があまく、カーブでスピードを出し過ぎた為に強烈なスピンをかました挙句、あまりに強烈なGが急激に体を襲った為に途中で“ブラックアウト”したんだなぁ」と常識的に考えられるものを……。私も成長したものだ。
しかし、そんな私もたまにはぽかをやらかすことがある。
先だって信州は木曽の山道沿の蕎麦屋に立ち寄った時のことである。
私は友人2人と店の席に着き、友人がその店の娘であろう店員に注文をし終えるのを、「うーん……ここはやっぱりシンプルに月見蕎麦だな」などと蕎麦湯を飲みながら待っていた。
暫くして自分の番となり、「えーと、月見蕎麦お願いします」と私が注文をすると、
「どちらの?」
とその店員に訊き返され、とっさに私は「いや、オレが食べるんですけど……」と答えてしまった。
店員の質問の意図するところは「温かい蕎麦と冷たい蕎麦のどちらになさいますか?」だったのだが、私は「これはどちら様の注文ですか?」と解釈してしまったのである。よくよく考えてみれば先に友人の注文を聞いているのだからわかりそうなものだが、普段から支所の若手公務員のようにボーっとしている私にはその意味を汲み取れなかったのである(しかし、冷たい月見蕎麦というのはこの世に存在するのだろうか?)。
言葉というのはその時々によってニュアンスを変えるものだが、幼い頃からそういった変化に慣らされているとはいえ、今回のように赤っ恥をいつかくともしれないので、なかなか気は抜けないものである。
ちなみにその店で食べた蕎麦はこれといって印象深い味でもなかったので、冷たかろうが温かろうがあまり関係はなかったというのがこれまた後味の悪い話である。
―2003年12月13日―