お正月をひたすらぐだぐだと過ごした報いだろうか、最近やたらと欠伸が出てしようがない。平生から当たり前のように聴いているブラームスやハイドンといったクラシックの名曲を聴いても、フロイトやフロムといった人間心理学の著書を読んでみても、自分が書いたシルビア通信の過去のエッセイを読み返していても、なぜか欠伸ばかりが溢れてくるのである。
多くの変温動物や一部の恒温動物が冬眠をして越冬するように、食べ物の乏しい冬の間は余計なエネルギーを消費しなくても済むようなプログラムが人間の遺伝子にも刻まれているのではあるまいか? だからこの時期に眠たくてもそれは当たり前だ! ――というようなことを小学生だか中学生のときに考えたことがあるのだが、それを聞いた母親の反応は、
「あんたは年中エネルギーを蓄えているでしょ」
と冷たいものであった。
この説が当たっていようがいまいが、それがまかり通らないのが今の世の中であり、それを承知で眠たいのが今の私なのである。ふぁぁぁ〜あ……。
……欠伸をしていて思い出したのだが、そういえば私には前々から不思議に思っていたことがある。
「大自然紀行」や「地球探検紀」などNHKでよくやるような類のテレビ番組でワニの生態を紹介する場合、そこで必ずと言っていいほど大口を開いているワニの口の中をついばむ鳥の映像が流れる。この鳥(ワニチドリ)はワニの口の中にある食べカスを食べ、ワニはワニチドリにそれをさせることによって口の中の食べカスを掃除して貰える。そこには双方のニーズに見合った共生が成り立っているのだという(*)。
*もっともワニとワニチドリの共生については疑問の声がない訳でもないようで、サメとコバンザメのように認知されている訳ではないようである。そしてこの共生がアフリカだったり東南アジアだったりに点在するワニのいずれにも当てはまるケースなのかどうかは、ワニ博士、ワニチドリ博士ではない私の知るところではない。
私はこの話を聞く度にどういった経緯でワニチドリはワニと共生を始めようと思ったのかが不思議でならない。
相手はなんといってもあの獰猛なワニである。私がワニチドリならば、空からワニに石をぶつけたりして「やーい。悔しかったらここまで飛んでみろぉー!」とからかいはすれ、奴の口の中に入って食いカスを食べようなどとはコペルニクスの頭を以ってしても思わないだろう。
恐らく最初にワニの口にある食べカスを食べようと思いついたワニチドリは仲間からも一目置かれる阿呆だったに違いない。それも肉食動物の口の中に身を投じるという普通の鳥、いや、人間でも考えられないようなことをする奴である。よほどの変わり者だったのだろう。ワニの口に飛び込んでいったその時も、
「おい見ろよ! あの馬鹿、ワニの口ん中飛び込んでったぜ!」
「前から馬鹿な奴だとは思っていたけど、ついに頭がショートしたか」
「ご愁傷様……。お前のことは末代まで語り継いでやるよ。笑い話としてな」
などと冷笑交じりに仲間から揶揄されたに違いない。
しかし、狂ったようにも思えたその行動はその後のワニチドリの生活様式を一変させ、未だミームのように脈々と受け継がれてきているわけである。世が世ならそのワニチドリの銅像が建てられ、「彼は決して勉強ができる子供ではなかった――」の書き出しで始まる伝記も出版され、学校の図書館でそれを読んだ私は、
「そうか! 勉強ができないからって頭が悪いわけじゃないんだ!!」
と勘違いしていたことでしょう。
バカと天才は紙一重と言うが、これはなにも人間界に限ったことではないと思うのだ。
―2004年1月20日―