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―― 多数決の価値について ――

「この猫をクラスで飼うかどうかを、多数決によって決めたいと思います」

 こういった審議の場に、私は義務教育課程を送る中で度々直面した。同級生が拾ってきた捨て犬や猫の処遇をクラスの皆で決めようというのである。私の経験上、こういった問題を持ち込んでくるのは大体が女子だったように記憶している。

 担任の先生は、生き物のことを皆で話し合うのはとても良いことだと言わんばかりにこの顛末を黙って見届ける。同級生達は教卓に置かれたダンボールの猫を尻目に、賛成派、反対派、それを静観している者とに分かれる。そして、「……だから飼ったほうがいい」「……だから放っておくべきだ」なんて互いに口角泡を飛ばし合う。

 ――そんな光景を見ながら、「なんでこれをクラスで話し合わなくちゃいけないんだろう?」と、いつも疑問に思っていたのが私である。

 捨て猫や、野良猫を拾って育てるのは個人の自由である。また、その場にいる友達と話し合って毎日のように餌をやりに行くようにするのもいいだろう。

 しかし、それがなぜクラスで話し合うといったことになってしまうのだろうか? 猫をかわいいと思うのは個人の自由である。それを飼いたいと思うのも個人の自由である。その個人的な彼(彼女)の問題が、どういった理由からクラス全体の問題にすり替わってしまうのか。私は、これがどうしても納得できなかった。これがまかり通るなら、「僕のお婆ちゃんをクラスの皆でお世話してください。どうぞよろしくお願いします」と提案するのも問題ないんじゃないかと思えてくる。

 猫をクラスで飼いたいと言い出すのが人望のある人物、もしくはクラスのマドンナ的存在ならば話し合いにけりがつくのは簡単である。しかし、それが同級生から疎ましく思われているようなクセのある人物だった場合、事は深刻となる。なぜならば、こういった子供の話し合いの多くが猫のことよりも、それを提案したパーソナリティの非難へと向かうことが多いからだ。特に提案者がクセのある人物だった場合のそれは顕著である(ま、そういう人がこういった提案をよく持ち出してくるんだけど)。

 それでも大概は同級生の動物愛護精神へ訴えることで、クラス全体が「面倒を見てやってもいいんじゃないの?」という空気になってくる。それにもめげずに反対派が「世話をしたくない!」と主張し続けると、負けじと「そんならアンタは面倒見なくたっていいよ。私たちが全部やるから!」なんてヒステリックに声を荒らげだす。「じゃあ、お前の家で飼えよ」と思うんだけど、そこは提案者の家の事情もあるのだろう。

 私も猫や犬は好きなので、彼らの世話をするのはやぶさかでない。でも、だからって、これをクラス全体の問題にすり替えて、同級生の責任に訴えかけるのはどうだろう。自分で拾ったのなら、責任を持って個人で飼うなり里親を探すなりして欲しいと私は思うのだ。

 上のような意見も、屈折した愛護精神が蔓延した教室内では異端審問のように吊るし上げられることがしばしばである。私はこういった多数決の危うさを子供ながらに何度も肌で感じてきた。社会生活を営む人間の集団心理の怖さである。


 現在、巷には正しいとされている常識みたいなものがたくさんあるけれど、多くの人は右に倣ってそれを無条件に取り入れているだけなんじゃないだろうか。特に考えることもなく「科学的」とか「流行」とかの言葉に踊らされて、自分で確かめたわけでもないのにそれが正しいような錯覚に陥ってはいないだろうか。

 そういう人たちの支持とか多数決って、はたして価値があるのかなぁ……と思う。

―2006年3月31日―

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