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―― 慣れとかそういうことについて ――

 ワキガレムレム。

 「おはよう」とか「こんにちは」だとか、そもそもなんでこんな意味のない言葉を挨拶に用いたりするんだろう? 「お早く○○ですね」「今日は○○ですね」が転じてそれぞれの言葉となったらしいのだが、考えれば考えるほどにこれらの言葉には違和感が増してくる。本来は後に言葉がつづいて意味を成していた台詞なのだから当たり前と言ったら当たり前の話なのだが、普段はそんなことに囚われることなく自然に使っているのだから慣れとは恐ろしいものである。たぶん「ワキガレムレム」「エリアシワサワサ」といった言葉が大昔から慣れ親しまれていた挨拶ならば、わたし達はそんな台詞を違和感なく交わしていたに違いない――なんてことを幼いころはちょくちょく考えたりしていたが、今ではそんなことを歯牙にもかけなくなってしまった。慣れとは本当に恐ろしいものである。

 子供の頃は世界がキラキラと輝いていて毎日が楽しかったけれども、大人へと近づくにつれて世界が色あせていき、いつの間にか退屈な日常がつづいている、という多くのひとが抱く人生への感懐もこの“慣れ”のなせる業であろう。

 ちんちんに毛が生えては驚き、脇に毛が生えては驚き、隠していたエロ本が煙のように消えては驚いていた思春期のわたしだったが、今では自分のちん毛を見ても平然としたものである。すこし寂しくもあるが、もし人間が慣れるという機能を持たない動物であったならば、おしっこをする度に自分のワサワサしたちん毛に驚かなければいけないことになるので、やっぱうまくできているなぁと思う。


 わたしは虫が苦手である。この時期になるとわたしの部屋には虫たちがたびたび訪ねてくることになるのだが、毎年これが憂鬱でならない。家のドアノブにカミキリ虫がとまっていようものなら、わたしの家はカミキリ虫に乗っ取られたも同然である。彼をどかすということは、わたしにとって核ミサイルの発射ボタンに触れるのと同じくらいの恐怖をともなうことなのだ。

 そんな彼らを観察するにつけ、自分がもしも蜘蛛やカミキリ虫といった存在だったらはたして自分の体にわたしは耐えられるのだろうかと考えてしまう。もしそうなったら、自分の頭から伸びた長い触角を見ているだけでその日のやる気がアリからキリギリスになりそうなもんだが、そこはやはり慣れの力でどうにかなってしまうものなのかもしれない。

 例えば街行く人々の中を四つん這いになって進んでいる人間がいたら気持ち悪く見えるように、四つ足動物の目から人間を見た場合のわたし達の姿や振る舞いというのもけっこう滑稽なものなのかもしれない。本人たちはこの姿や振る舞いに慣れ親しんでいるからそのことには気づけないだけで、きっとそういうものなんだろうと思う。

 そう考えれば、けっきょくどの目線から世界を見ているだけかの違いで、蜘蛛も、カミキリ虫も、ゴキブリも、人間も、どれが上等だとかというカーストのようなものはないような気がしてくる。

 日常生活を送っていると、ときたま「よくあんな恥知らずな行動がとれるな……」という人様に迷惑を撒き散らかしながら生きている人間に出会ったりするもんだが、あれだって本人はそんな自分に慣れているのだから、いくら周りが白い目を向けたところで無駄である。そもそも自分がそんな傍若無人な人間だと気づけるということは、人間の感覚を持ったままゴキブリになるようなもので、そんな感覚を持ち合わせていたらきっと自分自身に耐え難い苦痛をもたらすことになってしまう。そんな人たちの救済としての機能も慣れにはあるのである。


 さて、エッセイの冒頭に書いた「ワキガレムレム」であるが、これはわたしが考えた新しい挨拶的記号である。人の出会いが挨拶から始まるように、どんな文章も「ワキガレムレム」で始まるようにすればいいとわたしは考える。この言葉を文章の頭に据えること、それはすなわち素晴らしい文章の出だしがそこにあることを意味する。この概念を普遍化することにより、作文を書かなければならない小学生の子供から物語を紡ぐプロの作家まで、多くの人が大いに助かることになるだろう。もう文章の出だしをいかに魅力的にするかで頭を悩ますことはないのだ!

 そして、どんな文章でも次の言葉を書いたらその文章はうまくまとめられたという決まりにしよう。これで文章の締めで頭を悩ます作業ともおさらばだ。ぜひとも多くの人に使っていただき、挨拶のように慣れ親しんだ言葉にしていただきたい。

 エリアシワサワサ。

―2006年6月27日―

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