小学生に「横断歩道を渡るときは、右見て、左見て、もういちど右を見てから渡りましょう」と教えることからもわかるように、子供というのは基本的に未来の危険に対して無頓着である。
わたしもそれに漏れず、子供のころは危険に対してまったくの無頓着であった。彼らの多くがそうであるように、危険とか汚いだとかいうよりも、興味をひく目の前のことに神経のすべてを集中させていたからである。今でも基本的にワイルドなわたしは、危険とか汚いといったことに無頓着で、気がつくと短パンからちんこがはみ出ているから困りものである。
いつだったか、小学校の同級生たちの間で階段の高い位置から飛び下りることを競う遊びが流行しており、それに夢中になっていた時期があった。どこかの国の部族が成人式にバンジージャンプを催して成人に足る勇気をはかっているが、ノリとしてはあれと同じである。
もちろんわたしも他の同級生に負けじと、より高い位置から飛ぶことを目指して、一段、また一段と日々その高さを積み上げていたのであった。
そんなある日のこと。
いつものように自己記録更新を狙う放課後の校舎の階段。
わたしは自分の気合を裸足というかたちで表して、そこに立っていた。
ユートピアのゴムパッチンのようにたっぷりと助走をつけて階段を飛び出たわたしは、新記録への確かな手応えを感じながら、あとは重力にまかせて地面に下りるだけだ――と着地点を見たその目のなかに、針をこちらに光らせ床に転がっている、1本の画鋲が飛び込んできたのである。
図-1 画鋲を踏む 0.5 秒前
うわ! と思ったが、空中では体の移動はままにならず、画鋲はそのまま重力にまかせて左足の薬指へと突き刺さった。
刃物や爆破薬がそうであるように、画鋲は人を傷つけるために生まれてきたわけではない。わたしという愚かな人間と、なにかの拍子でそこへ転がることになった画鋲の運命とにより、便利な道具が本来の役目とは違うえぐい凶器へと変わってしまったのである。
以来、わたしは階段の上り下りに神経をつかう人間となった。
あれは暗に「ものごとの本質にそれた行いは、不幸な結果を招き寄せることにもなりかねないんだよ」という画鋲からのメッセージだったのかもしれないという気がしないでもない。
わたしはそんな画鋲のメッセージを、画鋲なだけに心にとめている。