ホームズは、「その晩、犬の鳴き声で何か気づかなかったかい?」と尋ねた。
「犬が吠えるのは聞かなかった」とワトスンは答える。
「そうだ、その犬が吠えなかったということに意味がある」
ジョナサン・ミラー『精神の状態』より
私が小学生の頃は「子供とはかくあるべき」みたいな歪な鋳型を、ことあるごに押しつけられた時代であった。以前のエッセイにも書いたが、歌うときは体をメトロノームのように左右へと揺さぶりながら笑顔を作って歌わなくてはならないとか、外で真っ黒になるまで日焼けして遊べとか、やたらと短パン率が高かったりだとか……。
その中のひとつに「授業中は積極的に手を挙げて答えよう」というのものがあったのだが、わたし達のクラスではこれが変化して「わからなくても取りあえず積極的に手を挙げよう」とすり替わったものが蔓延していた。自分の意見を堂々と言える子供になろうという当初の目的が、いつしか意見があることを示す挙手という手段に目的が移ってしまったわけである。
当時の私達の担任教師というのがヒステリーな女性教師で、このなんら意味のない行為をよく生徒に押しつけてきた。黒板に書かれた問題を指差して「はい。わかる人は手を挙げて」とやるのだが、手を挙げる生徒の数が少ないと「とりあえずわからなくてもいいから手を挙げろ!!!」と怒鳴り散らしては無理やり生徒の手を挙げさせていた。そうやって挙がった手の数に、自分の意見を積極的に発言する活発な子供達が増えているという錯覚した満足感を得ていたのである。
そんな女性教師の異常な迫力に答えがわかっていない生徒や気の弱い生徒も1人、また1人と、そろそろ力なく手を挙げていくわけだが、そんな教室内にあって私だけは最後まで手を挙げることはなかった。どんなに怒鳴られ、張り倒され、教室の隅に立たされて「君は今このクラスの輪から外れているんだよ! わかってるの?!」と罵られても頑として手を挙げなかった(クラスの輪から外してるのはお前だし、こんな理不尽でキモチの悪い輪の中になんか誰が好き好んで入るか!)。
悲しいかな、当初の目的であった自分の意見を堂々と示している生徒は皮肉にも手を挙げていない私だけだという事実に、その時の女性教師は気づけなかったのである。
当時と違い圧力に屈しない根性よりもスケベ根性だけが発達した今の私であるが、自分の意見を押し通す意思とチンコだけはいつまでも固くありたいなぁ、とこの事を思い出すたびに思う。