商人の発生は、さらに北海道でニシンや昆布を買い付けて、人に頼んで運び、野尻湖畔の“北信濃市場”に持ち込む人を生みました。もっとも、ここまで来るには石器時代から江戸時代まで待たなくてはならなかったでしょうけれども。
北海道で日夜、ニシンや昆布の買い付けなどに走り回った商人は、小樽から北前船に荷を載せると、後は新潟に荷が届くのを祈りながら北海道の奥へ入って行ったことでしょう。自分が送った荷が、自分のいない長野県で競りに掛かるとすると、代金を受け取る方法を考えなくてはなりません。
今でいう、宅配便に荷物を頼んだとしても、販売できた代金は、銀行に頼んで北海道に送ってもらわなくては、次の買いつけの資金が用意できません。
銀行のない江戸時代には、両替商と呼ばれた金融業者が誕生し、代金の決済と送金を担当しました。
電話や電子メールのない時代にどうやって遠隔地の資金決済をしたのでしょうか。実は、自分の支店を北海道につくるか、信用できる両替商を北海道に見つけ、協定を結んで、互いが立て替え払いをしておき、年に1回か2回、出掛けるか飛脚を飛ばし、互いの立て替え分を清算していたのです。
為替制度の発見です。
現在のわれわれは、銀行の業務の大半が預金を預かることと融資を実行すことだと考えていますが、銀行の前身であった両替商の主要業務は為替でした。
両替商は江戸と大阪の間の資金移動を担当する一方で、江戸と大阪では金と銀の相場の売買もしており、今でいう外国為替でした。これらの為替制度の発明は資金決済の範囲と方法を飛躍的に広げ、市場のさらなる拡大に貢献していったのです。
(2002年12月21日「長野市民新聞」)
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