中でも稲に出会ったことは大きな発見でした。稲を発見した南の国では、稲は1年に3回も収穫でき、1粒の種が500粒以上に増えるという効率の良い作物でした。
火と土器を発見していた人類は、米を煮て食べることを学びました。
米はでんぷんを中心にカロリーと栄養が豊富な上に、乾燥させることで長期に保存することが可能でした。また、持ち運びにも便利で、狩りに行く場合にも携帯することができました。
水耕栽培だったので流れてくる水が常に栄養素を稲に運び込むため、連作による障害も発生しませんでした。
こうして温度が高く水の豊かなアジア諸国では栽培経済の中で、稲作が中心になっていったのです。
同じ栽培の経済でも気温が冷涼で雨の少ない欧州では麦が、麦も米も育たないモンゴル平原などでは、羊や牛を放牧することで、食料を生産し、同時に保存する方法が発達しました。
稲作の発展は社会の構造や人間関係にも大きな変化をもたらしました。稲作では田を開発する最初の段階でも、開発された田を維持して行く段階においても、いつも集団の規律と協力が絶対に必要です。
なぜなら、幾つかの田を水が流れますので、水の管理と権利関係の話し合いがまず大切となってきます。また、誰か一人でも田を作ることをやめたり、雑草取りの手を抜いたりしますと、下の田には冷たくて肥料分のない、雑草の種を多く含んだ水が流れてしまうからです。
こうして、規律の強い、勤勉な稲作社会が誕生していったのです。
(2003年11月15日「長野市民新聞」より」)
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