17世紀初頭のパリでは人々がおけにためた排せつ物を窓から放り出すので、街路が人ぷんで覆われ、市民は悪臭に悩み、歩くことにも支障を来たしたといわれています。
日本でも江戸に幕府が開かれてから半世紀後には生ごみ問題が発生、徳川幕府は大芥溜(おおあくため)以外にごみを捨ててはならないとの触れを出しています。
1901(明治34)年、田中正造は渡良瀬川の公害問題で明治天皇に死を覚悟の直訴をしようとして拘束されました。田中は足尾銅山から流れる鉱毒に苦しむ農民を見るに見かねて、国会でこの問題を繰り返し取り上げましが、政府から「何を言ってるか分からん」と軽くあしらわれてしまいました。
正造が立ち向かったものは、産業革命以後に発生した公害問題のはしりでした。
それ以前の公害問題が主に消費の側から引きおこされたものだったのに対して、足尾銅山の問題は(1)生産者側から引きおこされたこと、(2)化学物質による汚染であること、(3)近代化を急いでいた明治政府によって必要悪として問題が無視されたこと、(4)人命よりも生産力の拡大を優先する考えが正当性を持ったこと──など、産業革命後に変質した経済の論理を完ぺきに踏まえたものでした。
経済が人々の幸せを拡大することを目的とした平和的な市場の論理から、国と国、民族と民族の支配関係を決める重要な要素に変質し、生産力の拡大そのものが各国、各民族の目的となったことを象徴的に示す事件でした。
この生産力の拡大競争が過剰な生産物を押つ付け合う世界になるのに時間はかかりませんでした。
(2004年4月17日「長野市民新聞」より」)
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