お茶の間 けいざい学 (92)
 思想の書──研究者の主観反映

 政治や権力の拡大とともに発展してきた経済学は、初めから社会の仕組みや政治体制に対する考え方の違いをも含む学問でした。

Hoki

 数学や物理学のように人々の考えの違いを乗り越えて、絶対的な真理を証明できる学問としては発展しませんでした。
 百姓が飢えから翌年の種もみを食べてしまわない限度を統計的に調べることは、一見、数学と同じ客観的な科学ともいえます。
 しかし、ぎりぎりまで年貢を取り立てようとする悪代官から依頼を受けた場合と、百姓が少しずつでも蓄えを残しながら、新しい田畑を開墾できる範囲を調べさせようとする名君の依頼で調べる経済学とでは、どうしても手法とその内容が異なったものになります。
 チャンスが平等なら才能や努力の結果、豊かな人と貧乏な人が生まれても仕方ないと考える人が主張する経済学と、皆が同じ物を同じ量食べられる社会が良いと考える人との経済学では、経済分析の視点が異なり、異なる主張、異なる政策提言が行われることになります。
 かくして経済学は、研究する人の思想や正義感の入ったものとならざるを得ませんでした。
 すべての学問の基礎になった哲学も、考える人の人生観や宗教観の違いを色濃く反映する学問です。経済学の祖アダム・スミスも元は哲学者でした。
 経済学が、考える人の価値観や人生観を排除できない学問であり、歴史観や政治思想と切り離せない学問であったことは、その後の経済学の運命を決めました。
 最終的な正解を証明できない学問であることから壮大な論争が起き、壮大な実験が行われ、壮大な失敗が繰り返されて、自らが信じる経済学の仮説が実験される歴史の中で、たくさんの人が死んでいきました。
 悲しいですね。

             (2004年7月3日「長野市民新聞」より」) 
 
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