前回取り上げたサプライサイド経済学は、ドル紙幣いくらでも増刷できる基軸通貨国の米国でしか成功しなかった経済政策かもしれません。
市場経済学は、全く規制のない自由な状態を良しとした考え方から生まれました。しかしその後に、市場の機能を全面否定し、100%規制しようとするマルクス経済学の洗礼を受け、数々の修正や試行錯誤を重ねてきたのです。
そして、20世紀末には再び規制の少ない自由競争を目指すサプライサイド経済学のような学問に戻ったのは、注目すべきことかもしれません。
どのくらいの規制や大きさの政府が良いのかは、料理の味加減や塩加減と同じで、多分だれも数値で証明できるものではないでしょう。
それでも大多数の国民が幸せと考える塩梅(あんばい)はあるはずです。これからもこの最適な塩梅を求めて経済学の模索は続くでしょう。
それはなぎさの上に築いた城が、波に洗われ、消えてしまうたびに、再び砂の城を築き出すような作業ともいえます。
結局、経済学に求められる宿命とは、常に不確かに変化する人間が営む“経済”という生き物を見詰めながら、人々が快適と感じるバランスをではないでしょうか。
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これまで、前半の50回で商業活動を主とした市場経済が「不足を補い合う経済」であり、後半の50回で産業革命後の国家間経済が「過剰を押しつけ合う経済」であることを中心に紹介してきました。次回から「余話(夜話)編」として、これまでの流れからこぼれた幾つかの話題などをざっくばらんに取り上げながら、経済について話しをもう少し続けていこうと思います。
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