鯨くじら <後 編> ・・・・・さかなのうんちく |
|
*〜男性的な西洋、女性的な日本〜
*「肉食の思想」「草食の思想」〜家畜を食える民、食えない民〜
*「獣の肉」「魚の肉」〜肉を食う顔、食わない顔〜
*おわりに
〜男性的な西洋、女性的な日本〜
個体が祖先の歴史を記憶し背負って生きている事は他の面でも言える。陸の狩猟民族の子孫の身体には獲 物を追って槍で突く事で種族を維持継承してきた祖先の記憶が膨大に蓄積されているはずである。そして民族が背負った歴史から来る発想や体質の違いは本能が
吹き出しやすい格闘技に色濃く出る。陸の狩猟民族の 子孫の格闘技はボクシングやフェンシングの様にひたすら「突く」発想で貫かれている。
一方、図の様なクジラ追い込み漁を選択し、船を引き、網を引き、釣り糸を引いて来た海の民族・日本人の体には殆ど「引く」発想で生活を支えてきた祖先の血が流れていると考えられる。
鯨の追い込み漁
米国人になぎなたを持たせると必ず突く動作をする。 ところが日本刀やなぎなたを持たされて「突く」発想 をする日本人はまずいない。日本の柔道や相撲もひたすら相手を「引く」発想から出来上がっている。
我が子が猛犬に襲われた場合でも、米国の母は子を背にして犬と向かい合うが、日本の母は子を胸に抱き犬に背を向けると言う。子供が遭遇する危険の確率から言えば、陸の狩猟民族にとっては猛獣や毒蛇などに
襲われる事が一番であろう。どの場合でも子供か襲撃 者のどちらかを「突き」飛ばし、あいだに母が盾となって立たなければ子供を保護できない。
一方、海で漁労(ぎょろう)に従事する母にとっては、一番の恐怖は舟から子供が落ちる事と、岸から子供が波にさらわれる事であろう。いずれの場合でも母はとっさに子
供を自分の側に「引き」寄せるか、子供を胸に抱え打ち寄せる高波に背を向ける事が要求される。
ところで古墳時代の埴輪の差す刀は「突き」を目的 にした直刀である。あれが湾曲し「引いて」切る現在の日本刀に変わった時期に北方騎馬民族と南方海洋民
族の入れ替わりはなかったのだろうか?因(ちな)みに切る太刀(たち)や引戸の登場は平安期からで、伝聖 徳太子画像は直刀の大刀(たち)を佩(はい)し、当時の寺院建築には突く槍鉋(やりがんな)が使われ、その扉は観音開きである。
李御寧(イー・オリョン)が「縮み志向の日本人」で論じた日本人の特 性も、この自分の方に向かって「引く」と言う日本的
発想から生れて来たものと考えられる。日本は世界の情報を集める事には熱心だが、情報を発信するのは不得手であると良く言われる。ここにも世界の空を飛び
交う情報を、海を泳ぐ魚群の様にすくって集めないで はいられない海洋民族の血の宿命を感じてしまう。当然に交渉事でも米国人は相手を突き飛ばしておいてか
ら交渉を開始し、日本人は相手を自分の領域に引き込んでから交渉を開始しようとする。
これらの違いは都市造りや家の設計にも表れており、 西洋の都市や住宅は他人や自然を拒否し、排除する作り方になっている。一方、日本の都市や家は自然や人や風景を取り込んで行こうとする発想で作られている。
「突き」が主の空手は文字通り「唐の手」で日本が 源流の格闘技ではない。この様に黄色人種でも中国人は明らかに「陸の民・肉食の民」である。中国から熱心に文化を取り入れた日本が巧妙に拒否した文化に図
の纏足(てんそく)と宦官(かんがん)がある。
纏足(てんそく)
日本人は肉体に人工的に改造を加える発想が家畜の逃亡防止や肉質向上の行為と重なる事を敏感に感じたのであろう。今でも日本では親にもらった大事な肌に墨を入れたり、小指を詰めるなどの人工的変更を肉体に加えると真面(まとも)な人間とは思って
もらえない。整形美容に何となく抵抗感を感じる日本 人が多いのもこんな所に原因があるのかもしれない。
洪水の様に取り入れて来た中国と西洋文化の中で日本に絶対に根づかなかった習慣が実はもう一つある。室内で下足を履く習慣である。電車の中などで日本女
性が靴を脱いでいるのを見ると西洋と中国の女性は恥ずかしがると言う。日本の女性は最初に履物を脱ぎ、 最後に下着を取るが、西洋と中国の女性は服を脱いでも靴を脱ぐのは最後の最後であるという。
確かに米国の漫画やピンナップ写真に頻繁に登場するハイヒールだけの女性と言うモチーフに日本の印刷 物でお目に掛かる事はまずない。これは室内でも土足
を使う住宅構造の違いとも考えられる。しかし、アイダホやモンゴルの草原に住む人間は敵に襲われた場合や、獲物を見つけた場合は直ぐに走らなくてはならない。そこで履物は最後まで身につけておく習慣がつい
たと思われる。一方、海辺に住む民族は逆である。鯨を発見した場合でも、波にさらわれた場合でも履物は 邪魔になる。真っ先に履物を脱ぎ捨て下帯一つで泳が
なくてはならない。
ここで論じている西洋と日本の差は、各々の国が持つ歴史や政治体制の違いに起因する事柄ではない。例えば日本の国家体制は朝鮮半島からきた騎馬民族系の人種が選択した律令制からスタートしたものかもしれ
ない。しかし、その体制の下で日々の労働に従事した 庶民の身体には南の海から渡ってきた漁労民族の記憶 が封じ込められて行ったものと思われる。頭脳の産物
である思想や体制は陸の民族のものであっても、無意識の動作や労働を支える身体の部分に染込んだ記憶は 海の民族のものであった可能性が高いと考えられる。
米国は海洋国家とする意見がある。確かに近代になってからの米国は通商で栄え、海軍を主力に世界に覇 (は)を唱えた。しかし米国人のメンタリティーは明らかに馬を駆り、荒野に牛を追う狩猟民族のものであろう。
日本についても農耕民族と言う見方がある。しかし 祭の山車(だし)の引き回し、宝船にのった恵比寿や弁財天への信仰、お伽話の中の浦島太郎、桃太郎、因旛の白兎に羽衣伝説とそのメンタリティーはほとんどが海のものであると考えられる。
初めて西洋料理を食った時にステーキナイフが押さないと切れない事にとても戸惑った記憶がある。物を切る場合に「突いて切る」などとは思いも寄らなかったからである。日常の何気ない作業動作でも西洋では
畑を起すスキ、肉を切るナイフ、木を切るノコギリ、 木を削るカンナなど全て「突く」動作で貫かれている。
逆に日本の鍬(クワ)・包丁・鋸(ノコギリ)・鉋(カンナ)などは全て「引く」動作を前提に出来ている。日本の農民は田に水を引く事
に命を掛け、漁師は浜で網を引き、大工は鉋を引いて一生を過ごす。その子は生まれて初めてする喧嘩でも本能的に相手の襟首(えりくび)を掴み、相手を自分の領域に引き込む事でやっつけようとする。
西洋や中国の一輪車は突いて使うが、日本の荷車は 引いて使う。日本の扉は引戸だが、西洋ドアは突いて開ける。日本人は机の上のほこりを手の平で手前に引
いて捨てる。西洋人は机の向こうに手の甲で弾いて捨てる。これら人間の体質と伝統から出た動きの違いは 決定的に思える。
陸の論理が、「自分の領域に侵入するものを排除する発想」「自分の思想や文化・歴史・信条・宗教などを他者に向かって声高く主張していく自己主張型・男
性的な文化」とすれば、日本の「やまと文化」は女性的で「他人の文化や思想を何でも取り込んで消化しよ うとする受け身型」にも見える。同時にそれは海や母を連想させるおおらかで寛容な文化とも言える。
こういう発想や体質の違う国が外交交渉をすると、 日本が「綱引き大会」だと思って出場して引いたら、 米国は「棒押し大会」と考えて押して来たと言うような悲喜劇は今後もいくらでも起こる事であろう。
「肉食の思想」「草食の思想」〜家畜を食える民、食えない民〜
西洋社会では飼育が困難になった愛犬は殺す。日本は捨てる。一方は愛するものに「惨めな生」を与えまいとし、他方は愛するものに「残虐な死」を与えまいとする。ここには家畜を食ってきた民族と食ってこな
かった民族の「生と死」に関する明確な思考方法の違 いがある。これは人間の尊厳死や安楽死にも及ぶ考え方で、人間の宗教観をも形づくっていると考えられる。
自分の犬に「惨めな生」を与えない愛は「愛犬を人に渡したくないから殺す」愛にも転嫁する。他の生命を100 %自己の所有物と見て殉死(じゅんし)を求める絶対君主の思想にも近く、別れ話がでた恋人を殺してしまう男の考え方にも近い。痩せた風土を背景に「自分が捨てたら、この犬はもう生きて行けない」と考えた可能性もある。和辻哲郎が「風土」の中で喝破したように、ヨーロッパの大地は確かに冷涼で牧草は育つが稲は育たない。人々は家畜を飼って寒い冬を生きる。家畜は文
字どおりlivestockで「生きている保存食」である。
最も身近にいる生命を食い潰さなければ生きられない社会は「人間だけは神に選ばれたものであり、他の動物は人間に食われるために存在する」と言う考え方を受入れないと生きていけない。そこにキリスト教が
受入れられた素地があり、自分がいかに動物から遠い存在であるか常に考える発想がある。動物と人間の間に段階的に幾つかの概念を設定する必要が生まれ、身分や階級差を生む「違いを探す」発想が育ったものと
思われる。ここから「地球は自分達の物であり黄色人種の物ではない」との確信が生まれ、太平洋も南極も自分の領分、全て自分の屋敷となる。そこへ入り込んで鯨と言う柿の実を盗む悪がきにはライフルをぶっ放したくなる事であろう。一方、自分の犬を「殺せない」愛は「犬には犬の人(犬)
生があり」これを自分が奪ってはいけないとする考え方である。人(犬) 格尊重の思考でもある。また「自分が捨てても何とか生きて行くだろう」と考える温暖湿潤気候を背景にした楽観的な思考でもある。日本人にとっては牛や馬は一緒に働く仲間であり、そこからは共生や輪廻(りんね)の思想、多神教な
どが生まれやすい。
「獣(けだもの)の肉」「魚の肉」 〜肉を食う顔、食わない顔〜
1965年(昭和40年)頃は日本の捕鯨が最も盛んな頃で、
鯨肉は100 g20円位の値段であった。四畳半一間に下宿する貧乏学生の私は近所の魚屋さんに鯨肉を毎日1L買いに出掛けた。夕方に買い出しに行くと、決まって大きな土佐犬を連れたおっさんが「鯨肉、コイツに1キロ」と買いに来るのに出会った。必死に「おっさん、見栄張っちゃって! 自分でも食うくせに」と心の中で叫び動揺を押さえていたが、今でも土佐犬は好きになれない。
鯨肉を主食にして半年位たった頃、自分の頬がいやに伸びる事に気づいた。引っ張ると、まるでチューインガムの様に伸びるのである。腹の皮も、腕の皮も全部ビュイーンと伸びる。顔の容貌も何となくバタ臭く
なった。給料をもらい米の飯が食える様になったら、 頬や腕の皮がパンパンに張って来て、全く伸びなくなった。それ以降、たとえおかずに魚の肉を食っていても水稲地帯の人間はコロコロと固太りであり、肉食地帯の人間の皮膚はクニャクニャとしているので年齢が来ると皺が寄りやすいのではないかと勝手に推測している。日本人でも長く欧米に住んでいると容貌がバタ
臭くなってくる。あれも服装や化粧品のせいではなく食物が最大の原因だと思う。
肉ばかり食っていた時期の経験から言えば、肉食は明らかに性格も変える。確かに物事に積極的になる。しかし女性に対しても積極的になるというのは俗説で
ある。一般に肉食獣はテリトリー内の餌になる動物の数を越えて子孫を増やすと共倒れになる。そこで必要 以上に子孫を作る事は控えなければならない。一方、草食動物の方は肉食獣に食われる数を計算に入れて子孫を残さないと種が滅びてしまう。結果として沢山の子孫を作る必要があるのは草食動物の方である。子供の頃にトンボを捕まえ指に挟むと、直ぐに卵を生む事が不思議でならなかったが、命の危険を感じた雌はたとえ生き残る可能性がわずかであっても自分の子供をこの世に送り出しておこうとするものらしい。
鳥や哺乳動物でも危険な目に会うと早産する。また 餌が少なくなって生命の危険を感ずる様になると多く の動物は種族保存の本能を強め生殖活動が活発化する。
人間でも飽食の時代より飢饉や戦乱の時代の方が出生率が高い。つまり「今夜は焼き肉を食ってガンバル ぞー」と言うのは逆効果であって、ガンバリたい人は断食をすべきである。煩悩(ぼんのう)を断とうと山に籠ったり断食したりするのも逆効果で昔の修行僧はさぞや苦しか
ったのではないかと同情してしまう。最近は世界中で日本食が見直されニューヨークなどでは寿司レストランが繁盛している。確かに魚には頭の働きを良くする
というDHA(ドコサヘキサエン酸)やコレステロールを溶かす EPA(エイコペンタエン酸)などが多く健康には良いと言うの が定説になってきた。ところが日本では獣肉の消費が増大し、魚肉消費が減少して来ている。日本の家庭から和食が消えつつあると言える。確かに魚は保存が難しく頭や骨などの生ゴミも多い。また専門的な包丁捌(さば)きや盛りつけ技術も必要である。その上にコンビニ弁当に代表される調理済み食品への需要が高い時代に刺身や焼き魚の出番はない。結局、魚中心の和食料理は日本の主婦から敬遠され、専門の調理師が料理したものを外で食べる「ハレ食」に変わりつつあると言える。
一方、保存も調理も簡単で、調理済み惣菜にも向く肉を中心にした国籍不明の食の方が日常の「ケの食」として日本の食卓に定着しつつある。食生活から見たら日本の海の文化は終わりつつあると言える。
ただ獣の肉を食えば西洋化すると言うものでもない。ステーキを食いワインを飲む事は消費の側だけから見た西洋化である。消費スタイルを洋風化する事が文化人の条件と錯覚している日本人も確かにいるが、民族の文化や体質は風土の中に根づいた生産の中から生ま
れて来るものである。本当に西洋化したいならフランス料理を食うよりはスキで畑を起こし、カンナを突き、家畜の屠殺や解体なども経験すべきである。
また人間は自己の基本的な発想スタイルを持たない で自分の行動や意思を決めて行く事ができない。状況に応じ「突く発想」と「引く発想」を使い分けていますなどと言うのは嘘である。そんな器用な事を言う人間は危機に頻(ひん)した場合や、咄嗟(とっさ)の判断を要求される場面で判断を放棄する人間であって信用する事ができない。無国籍な雑食に変わった日本の食卓から育つ次代の日本人は陸と海のどちらの発想に親しみを持つようになるのであろうか。
おわりに
捕鯨反対運動の高まりに対し、鯨を食うのは「日本の伝統的な食文化」であるとの主張があるが、実はこの言い方には説得力がない。確かに『古事記』
(712 年)には「久知良(くじら)」の文字が見えるが、鯨の事であるかは不明である。実際に食った記録となると『四条流包丁秘伝書』(1489年)まで時代が下り、鯨は鯛や鯉より美味であると記述されている。また長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)が豊臣秀
吉に土佐で捕れたコク鯨をまるまる一頭献上したのが 1591年であり、当時はそれだけ未だ珍しい食べ物であった事が分かる。捕鯨の歴史となると古代の散発的なものを除き、和田頼元が紀州太地浦で捕鯨の専門集団
「刺し手組」を組織した1606年が最初であろう。
最も1713年発行の『和漢三才圖會(わかんさんさいずえ)』になると鯨の知識はかなり詳細になり、世美(セミ)・座頭(ザトウ)・長須(ナガス)などの種類や、歯・髯(ひげ)・皮などの部位説明がある。陰茎の項には
「名多計里大者一丈其雌陰戸及乳房亦兼備」とあり、 大なる者は一丈(3m)ある事や雌の乳房と陰戸が同じ所にある事などが正確に観察されている。
大部分の日本人が実際に鯨の肉を食べる様になったのは大戦後のタンパク質不足を補うためにGHQが1946年国家規模での捕鯨を支援してからである。当時の日本人の肉消費量の47%が鯨肉で占められ、カチカチの鯨ステーキが学校給食などで供給される様になった。
よく中年オジサンが飲み屋で「鯨食日本伝統文化論」 をぶっているが、あれは初めて食った学校給食の鯨がうまかったと言っているに過ぎない。単なるノスタルジアは「文化論」ではない。最も大部分の日本人が鮮魚を食べられる様になったのは、実は家庭用冷蔵庫と低温流通機能が整備された昭和30年代以降であり、全く最近の事である。それでも漁労民族の発想が日本に残ったのは、漁労民族の発想と水稲栽培の発想が集団作業の面や水脈コントロールの面で近い関係にあった為であろう。どんな社会でも金持ちになってから入会権(いりあいけん)(山を共同で使用できる権利)を盾に貧しい人々が山菜や栗を採っている山に昔と同じ様に入り込んで栗や茸を拾ったら必ず非難される。同じ様に一人当たりの国民所得が世界最高水準になった国が所有権の確定しない海の入会地で鯨を取り続けたら周りは面白くない事であろう。
「陸の歴史」と「海の歴史」を体現した「鯨」という生き物をめぐる国際間の紛争は時として「地球環境」の問題になったり「動物愛護」の表現を借りたりして争われる。しかしそれは基本的には「海の論理」と「陸の論理」の激突であり、さらに言えば「豊かさ」と「貧しさ」と言う民族の歴史や国家体制の差を超越した普遍的なテーマをめぐる争いなのであろう。
(全国中央市場水産卸協会『全水卸』2002. 7 より)
[戻る]
|