春 告 魚  に し ん  ・・・・・さかなのうんちく  (2003・3) 

*ニシンの生態〜走り去った長距離選手〜
*産業としてのニシン〜明治を支えた巨人〜
*ニシンが見た歴史〜栄光と悲劇の証人〜
*ニシンの文化〜演歌好きの国際人〜
*ニシンの蘊蓄〜土着の本草学者〜
*ニシンのグルメ〜夭折の天才料理人〜

 昨年「神の魚」を書いた後に旅に出た。京都は高雄(たかお)神護寺から栂尾(とがのお)高山寺を経て北山杉の中を清滝川沿いに若狭へと北上する周山街道の美しさは、筆舌に尽くしがたい。週日で人気は少なく、晩秋の紅葉を見ながらのそぞろ歩きはなかなかのものであった。
 突然「にしん蕎麦あります」と大書された貼紙が目に飛び込んで来た。道の真中で「大変なご馳走(ちそう)ありますよ」と大声を掛けられたようでドギマギした。
 確かに、小さい頃は母が大根と昆布と身欠ニシンをよく煮てくれた。戦後間もない頃は大変な馳走でもあった。しかし私のニシンに対するイメージは依然として「安物でまずい」というものであった。
 考えると、この周山街道を通りニシンは京へ来たのである。冬の足音が聞こえ出す頃、雪の小浜(おばま)から荷を一杯に背負った馬が落ち葉を踏みしだきながら京に入ってくる光景は想像しただけで胸を締め付けられるものがある。北から届く海の幸は京都の人々にとって貴重な冬の蛋白源として馳走でなくて何であったろうか。それに欧米のニシンの燻製(red herring, kippered herring)は人気のオードブルである。ニシン蕎麦を食べることにした。
 関西風の薄味の蕎麦の下に置かれたニシンは甘く軟らかく煮られ、公家のような優しい味がした。食べながら考えた。明治に入り高揚を始めた日本の勃興(ぼっこう)期に彗星のように現れ、春には飛沫(ひまつ)を上げて狂喜する雄ニシンの放精で海が真っ白に盛り上り、明治の男の血を沸かせ、各地に御殿を作り、近代日本を支えたのに、なぜニシンは軍靴の音が聞こえ出す昭和に入ると急速に姿を消してしまったのか。ニシンについてもっと知りたくなった。

*ニシンの生態〜走り去った長距離選手〜  

 春、小樽に飛んだ。ニシン御殿の建つ岸壁で待っても春まだ浅い黎(くろ)き北の海に「春告魚(にしん)」の姿はなかった。
 科学的にニシンが来なくなった理由として、ニシンが4〜6℃の水温を好むことから日本近海の水温が上がりニシンに適さなくなったとの説が主流ではある。最近の環境保護で言われる地球温暖説であるが、人は雪が少ない冬には地球温暖化を言い寒い夏には口をつぐむ。緯度により、地形により、高度により常に変動している地球の気温の平均とは一体どうやって求めているのだろうか。
 1863年、近藤勇に襲われた新撰組前局長芹沢鴨と共寝の愛妾お梅の最期があっけなかったように、どんな生物でも睦事の最中に襲われるのは嫌なことであろう。折角広い海から産卵の為に集合した途端に捕獲され出生直前の数の子を取り出され続けたニシン達の無念は察するに余りある。
 鯉の餌付けで分るように魚類には学習効果がある。最近山陰地方では、集魚灯を点ずると群れを乱し逃げ惑うマサバが出現し、困っているという。灯に誘われる度に怖い目に合ったマサバが仲間に吹聴する為らしい。それならニシンが日本沿岸に寄り付かなくなったのもむべなるかなと思える。
 水中で目を洗浄する必要がない魚類には瞼が無い。しかしニシンには脂瞼(しけん)という瞼がある。目を保護するため目の回りの脂肪が固まったもので閉じられない。蛇足であるが、不思議なことにフグとマンボウには閉じることができる瞼がある。
 一般に魚の世界ではバショウカジキ時速100q、クロマグロ70kmなど快速選手が多い。ニシンはスマートな外観に似合わず鈍足である。時速5.7kmがやっとで人間の競泳選手の7.2kmにも負ける。しかしスタミナは抜群で長時間泳いでもほとんどバテない上に20年近くの長寿でもある。水圧変化や塩分濃度の変化にも強く急速な浮上にも耐えられる。北海道の能取(のとろ)湖では春に砂嘴(さし)で塞がれた海との境を切開くと、外で待機していたニシンが山となり淡水を求め突入したという。現在は汽水湖だが湖内で繁殖するニシンもいる。
 子供の頃、同じプールの水泳選手の体型が紡錘形に近くなり段々トドに似てくるように思えてならなかったが、一般に速度の速い魚の身は紡錘形でその肉は赤い。速いスピードで大量に消費される酸素の交換には筋肉中に鉄分やミネラルを多く保有する必要があるからである。逆にヒラメ、フグなど泳ぎが遅い魚の体型はお世辞にも美形と言えぬが、肉は白身の高級魚である。人は逆で、短距離選手は瞬発力ある白色筋が多く、マラソン選手には永く使って疲れない赤色筋が多い。魚のニシンは美形にして白身である。人で言えば才色兼備のはずなのに下魚とは気の毒。本当の下魚なら数の子が旨いはずがない。

*産業としてのニシン〜明治を支えた巨人〜

 日本海特有の重い雪に覆われた熊川宿を越え小浜に着いたのは、お水送りの行われる3月2日だった。棉のような名ごり雪が舞う若狭の浜に北前船の賑わいはなく、輝きを増した陽射しが鉛色の海に眩しかった。
 北の辺地でアイヌが細々と行っていたニシン漁に和人が進出を始めたのは文安4年(1447年)頃である。戦国が終り、社会の安定と共に日本は人口増加を始め新田の開墾が進んだ。豊臣時代150万町歩だった農地は亨保(きょうほ、17161年〜)年間には297万町歩に達し、新田の脆弱な土壌は肥料への需要を増加させた。慶長9年(1604年)当時は米が取れず石高表示がなかった松前藩に徳川幕府から蝦夷交易独占の認可が下りると、ニシン漁は産業として認識された。特に、肥料としての需要が急拡大する享保年間には主要産業の地位を確立し、北前船に積まれた肥料ニシンが敦賀・小浜などの港から近江地方に送られた。
 幕末には北海道全漁獲量20万石(1石=200貫=約760kg=ニシン約3千尾)の70%をニシンが占めた。明治に入ると殖産興業の旗印の下、漁獲量はさらに拡大を続ける。当時の松前ではニシン漁の季節は武士も町人も親も子も総出で漁にあたり、「ひと起こし千両」と言われ、漁が終ると1年は食えたという。この時節に「やんしゅう」と呼ばれる出稼人も多く、各地にニシン御殿が現出した。
 明治の勃興期に日本は生糸輸出から近代への道を走り出す。明治から昭和初期までの生糸は日本総輸出額のほぼ4割を占め、日本が日清・日露を戦い抜く戦費を賄った。この桑の成育を地下から肥料として支えたのがニシンの絞り粕である。またニシン油は硬化油として石鹸などの材料、グリセリンや火薬材料などに転化し資源の乏しい日本の近代化に貢献した。
  日本の近代化は夢中で糸車を繰る女工の細腕とニシンの文字通り身を捨てた犠牲の上に達成されたといえなくもない。
 ニシン漁獲量の推移はのように不思議と日本の勃興期と一致する。その推移を見ると単なる漁獲量増加努力のためとはいえない因縁を感ずる。日本が危機感と劣等感から必死で近代化を急ぐ期間は大いなる助けとなり、逆に日本が慢心から対外拡張を志向すると急速に日本に寄り付かなくなった。この変動には人知を越えたものがある。特に、日本の蚕糸産業が急坂を転げ落ちるように衰退を始めた世界大恐慌の1929年からはつるべ落としで漁獲量が減少。盧溝橋(ろこうきょう)事件で中国と戦争に入った1937年からは一旦回復に向かうも、太平洋戦争が終結し日本経済が2桁成長にのった1958年以降にはニシンが日本沿岸に押寄せることはなくなり、幻の魚となっている。


*ニシンが見た歴史〜栄光と悲劇の証人〜

 もう一つのニシン蕎麦を食べに会津に降りたのは水碧(あお)き猪苗代の上に吹雪舞う厳冬の1月だった。寒さに震えながら賞味する蕎麦は東北特有の濃い色と味で上に乗るニシンは酢と山椒の葉で漬けられ、堅く酸っぱくぴりっと辛く不器用に生きた会津武士の哀しみが伝わるような味だった。
 1853年ペリーの黒船4隻が浦賀に来航、2世紀半も世間知らずに暮らしてきた深窓の乙女にいきなり関係を迫るが如く開国を要求してから日本の現代が始まったといえる。1854年の日米和親条約締結は大和撫子が紅毛碧眼(こうもうへきがん)の男と契ることへの賛否両論を巻き起こし、井伊直弼(なおすけ)による「安政の大獄(1859年)」翌年の水戸浪士による「桜田門外の変」へと連なる。
 1864年3月尊皇攘夷(そんのうじょうい)を旗印に筑波山に63名で決起の水戸天狗党は8月に3千名に達するも戦い利あらず半数が幕府により斬首・獄死。残った823名は信州和田峠を越え中山道を京都へ向う。12月越前で降伏。全員敦賀浜の鰊倉(にしんぐら)に閉じ込められる。京都方面へ荷が発ち空いた16の倉には用便樽一つが置かれ、足枷をされた彼等は握り飯1日2個で敦賀の冬を越す。しかし2月353名が斬死となった。このニシン倉の一つは1960年に水戸偕楽園に移築された。この1960年は安保の年である。それまで鬼畜と憎悪した米国の傘の下で経済成長を追及することが決定、西欧との同居に日本人が納得を始めた年でもある。
 1868年1月に鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰(ぼしん)の役は、4月勝海舟・西郷隆盛会見による江戸城開城、9月8日明治改元、9月22日白虎隊で知られる会津落城で大勢が決した。この攻防で会津藩は2847名が死亡した。政府軍による略奪や婦女暴行も多く発生し、薩摩・長州を主力とする政府軍は城下に放置された死体埋葬を翌年まで許さず野犬の食うに任せた。歴史は常に勝者によって語られるものとはいえ、265年間国民の血を流さず来た江戸時代はこれで終り、日清・日露戦争、満州事変、太平洋戦争と絶え間なく国民の血が流される日本の現代史が始まった。日本は同質社会うんぬんの論議があるが、日本人が一体となったのはほんの半世紀であり、1世紀前の日本人は互いに戦っていたのである。
 それから9年後の西南戦争(1877年)では政府軍の兵士に徴用され「会津の仇」と叫びながら突進、薩摩示現(じげん)流(示現とは仏・菩薩が衆生済度のため、この世に現れること)の一太刀に倒れていった会津の若者の胸に去来した明治という時代は何だったのだろうか。京に代表される新体制の持つ革新性、中央集権、西欧崇拝、技術・都市優先思想と、会津がこだわり続けた保守性、地方分権、大和崇拝、民俗・文化重視思想との葛藤は、その後の全ての日本人が明治以降に西欧との間に感じ続けた心の振れの先取りだったともいえる。  優しい味と哀しい味のニつの「ニシン蕎麦」は京都と会津で繰り広げられた人々の愛憎と因果をどう見ていたのだろうか。

*ニシンの文化〜演歌好きの国際人〜

 欧州のニシンを知りたくて歩く2月のパリは雨だった。灰色のどんよりとした空から落ちる雨を窓に受けながら食す燻製ニシンは確かにうまい。飴色に染まる数の子は香ばしくねっとりと舌にまとわりつく濃厚な味である。ニシンは日本でも古くから知られて食されてきた魚であるが西洋ではかなり早くから知られ珍重されている。
 魚の名称が豊富な日本に比較し欧米での魚の名前は牛肉の部位名ほどには人口に膾炙(かいしゃ)してはいない。しかしニシンは別格である。スーツの柄によく使われる矢はず(杉綾)模様は西欧ではニシン骨(herring bone)模様と呼ばれる。古典的な表現になるが、ニシンのように死んでいる(dead as a herring),ニシンのようなすし詰め(packed as close as herring/sardine)などという表現も残っている。
 鎖国から開国に向った時代に日本近海に押し寄せたニシンは日本より西欧でよく知られ、その地位も高いという「文明開化」の魚でもある。日本国内では文学や和歌に歌われることはほとんどなく民謡や演歌に多く登場する。ニシン漁の網揚げの歌だった「ソーラン節」を始め「石狩挽歌」「なみだ船」など日本では庶民と共に生きた魚である。「ひばりの音楽は愚劣」と広言していた某クラシック音楽指揮者が酒場に流れてきた「悲しい酒」を聞いて号泣したという話がある。
 ニシン(ニ身・ニ心)は力ずくで関係を迫られた西洋社会とそのまま同居生活に入らざるを得なかった日本社会が愛情と憎悪、劣等感と優越感の間を激しく揺れ続けて来なければならなかった心境を最もよく解ってくれる魚でもある。ニシンは居酒屋で塩焼きで食らう時は「悲しい酒」が、ビストロの窓辺でワイングラス片手に燻製で食らう時には「シャンソン」が似合う魚なのである。

*ニシンの蘊蓄〜土着の本草学者〜

 「鰊馬車往き交う街となりにけり・鉄軒」北海道の春はニシン漁の開始で始まる。ニシンを積んだ馬車と共に活気と賑わいが街に戻ってくるのである。ニシンを東北地方で「カド」と呼ぶのはアイヌ語からで数の子は「カドの子」が訛ったものと言われるが俗説らしい。北海道教育大学岩見沢校舎の佐藤知己先生によるとニシンのアイヌ語は一般には「ヘロキ」だという。
 このヘロキは西洋各国のニシンを表す単語と余りに似ている。語源が同じとしか考えられない。遠い昔、氷に閉ざされた北の海でアイヌと他の民族との間ではどんな交流が行われて居たのだろうか。現在アイヌ語はどんどん消えて行きつつあると聞く。ニシン漁に狩り出され、強制労働を強いられたアイヌは方言記録を残す間もなく消えて行ったという。ここでもニシンは滅びゆく者の悲劇と葛藤を見ていたことになる。
 ニシンは鯡とも書く。食用でなく肥料であると卑しめたとの説と、松前藩では魚でなく「藩の米」として貴重品だったからとの説がある。
 本朝食鑑(1697年)では東国の魚、鰊の字を当て、音の由来を数の子が多いことから父母(二親)の恩恵を表すとしている。これには身を2つに割いて作る身欠ニシン(二身)からとの異説もある。
 日本最初の本草学(博物学)事典と言われる倭(和)漢三才圖會(1713年)は文句なく面白い。魚類についての説明も形態から、生息地、料理方法まで現代とほとんど変わらない。特に、毛筆で書かれた絵はいきいきとして写真より分かりやすく、江戸文化の高さがしのばれる。この倭漢三才圖會ではニシンは「魚兆」の字があてられ「かど・二志ん」と振仮名が振られている。私見であるが海岸に押寄せるニシンの多さから兆の字を当て、これが転用されたとの説に組みしたくなる。ここでは身欠ニシンを「美加木」と書いているがこの方が外観の実感に近いようにも思える。

*ニシンのグルメ〜夭折の天才料理人〜

 ニシンは歴史ある魚である。先史以前から人に食されており、全国の縄文遺跡や貝塚で骨が発掘されている。しかし数の子や身欠ニシンなどが記録として出て来るのは元禄時代(1688年〜) 以降である。近代に入り工業原料と肥料でスタートしたニシンの歴史は人に食料として認知されるだけでも長い月日を必要とするものだった。まして馳走の地位を得ることは最後までなかった。
 ただし「数の子」は別格である。江戸時代からグルメの地位を占めている。むかし京都では毎月1日にニシンと昆布の煮物を食べる習慣があった。15日には芋と棒鱈(ぼうだら)を煮た「いもぼう」を食べ、このニつを馳走「おばんざい」と言い、他の日の食事は「おぞよ」と呼んだと言う。唯一京都でニシンはグルメの地位を得ていたことになる。
 保存食としてのニシンは各地に個性豊かなメニューを残しているが、結局ニシンも塩焼きが一番旨いように思える。最近の子供は骨の多い魚は食べぬと聞くが確かにニシンには小骨が多い。しかし居酒屋での塩焼きニシンはホッカホッカの白身の間から小骨を上手に舌で出しながら食うから旨いのである。妙齢の女性と一緒でもヒーヒー言いながら食らうべきである。現在我々がお目に掛かるニシンはほとんど北欧、カナダ、アメリカからの輸入で、厳密にはかって日本近代化の応援団のように日本沿岸に押し寄せて来たニシンとは同一種ではない。むろん数の子もである。
 それにしても正月のお節料理あれは何だろう。ニシンの昆布巻と数の子は遠く北洋から別々の船で運ばれた母と子が同じ重箱の中に並んでいることになる。よく考えるとこれを一緒に食うのも因縁である。
                    
全国中央市場水産卸協会『全水卸』2003. 3より)

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