出世魚 (前編) ぶ り  ・・・・・さかなのうんちく  

*はじめに
*「位(くらい)」と「財」
  〜位人臣(くらいじんしん)を極めるか、億万富を築くか〜

*「冬」と「夏」〜ハマチは注文しないと回転寿司では食えません〜
*「西」と「東」〜ブリ文化圏、サケ文化圏〜

はじめに

 魚にも風土や文化があるというと笑われそうである。しかし北の寒流を泳ぐ魚達がどこか哀愁の影を引きずっているのに対し、南の海を泳ぐ魚達は元気で底抜けに明るく、生命の躍動を感じさせる。人が勝手に描いたイメージの差と言ってしまうこともできるが、強い太陽光線が作るアフリカやバリ島のファッションと珊瑚礁を泳ぐ熱帯魚の色彩には共通なものがある。
 大部分の日本人は南から黒潮に乗って倭(わ)の国に漂着した先祖を持ち「名も知らぬ遠き島より、流れ寄る椰子(やし)の実一つ・・・」の詩(うた)に遠い南の海の記憶を呼び覚まされる。
 人間と同じで、一般に外見がカラフルで目の覚めるように美しい魚で食べても美味しいという魚は滅多にいない。逆に色や形が単調で地味な北の魚に旨さがにじみ出るものが多い。冷海を泳ぐ魚は当然に脂肪などの蓄積が多く味がよくなるのである。
 九州や瀬戸内海はタイ、ヒラメ、フグなどの白身魚を中心に海産物の豊富さを誇るが、サケ、イクラ、カニなどを中心とした北海道の味には適(かな)わないことが多い。
 例外がある。スズキ目アジ科のブリである。ブリは暖流の魚で西日本を中心に食されているが、味の面でも北を代表する魚介類に一歩も引けをとらない。

*「位(くらい)」と「財」
〜位人臣(くらいじんしん)を極めるか、億万富を築くか〜


 ブリは成長に従って呼び名が変わる出世魚で、関東ではワカシ、イナダ、ワラシ、ブリ、関西ではツバス、ハマチ、メジロ、ブリと呼ぶ。
 いまだ身体に茶色縞があるブリの稚魚はモジャコと呼ばれホンダワラなどの流れ藻につく。これを捕獲し生簀(いけす)で育てることが1970年代に瀬戸内海で始まった。養殖ブリの呼び名が全国的に関西語のハマチになったのはこれが切っ掛けであり、ブリは日本の「作る漁業」を一身に背負ってきた魚ともいえる。
 現在では市場に出回るブリは養殖物が圧倒的に多い。1sのブリを作るには8sのイワシやサバが必要であるが、一般に動物は成熟期に達すると成長が止まる。ハマチも若い時期の成長は早いが2年を過ぎると成長速度が落ちる。そこで市場に出回る物はほとんどが60〜80cm3s前後の2年ハマチであり、1mを越える4年物の養殖ブリが市場に出回ることはない。
 養殖ハマチ1s約9百円に対し、年末の天然ブリは1s3千円以上になる年もある。しかし通年では夏には脂身が少ない天然物の方が養殖物より安いことが多い。
 大きさで呼び名が変わる魚はブリだけではない。墨田川など都会の河川でよく釣れるボラもオボコ、イナッコ、スバシリ、イナ、ボラ、トドと名が変わる。長崎名物カラスミ(唐墨)はボラの卵を塩干しした物である。また、「とどの詰り」はこれからきた用法である。
 夏に海水浴に子供を連れて行くと浜辺で「海の中にこんなに大きい魚がいたよー」と両手を広げて興奮することがあるが、あれは大抵がボラである。
 ボラは汽水域(きすいいき)を好み、浜の近くや河口の近くを回遊する。幼魚期には淡水河川の上流まで遡(さかのぼ)り、溜め池や水田にまで入り込むこともある。
 四国の今治(いまばり)城は堀に瀬戸内海の海水を引込んだ様式である。この浅い堀には錦鯉の代りにボラの群れが泳いでいる。また、都市近郊の海岸などで真っ赤な夕日を眺めていると、突然に大きな魚が黒い海面に飛び上がりびっくりするが、あれもボラである。
 スズキも名前が変わる。セイゴ、フッコ、スズキと名が変わり全国に分布する。東京湾に舟を浮かべると千葉県側の沿岸には巨大なコンビナートが立ち並ぶ。春から夏にかけてコンビナートのコンクリート壁に舟を寄せ、ルアー(疑似餌)を投げると信じられない程の大魚が獰猛(どうもう)に食らいついてくる。これがスズキである。深さが1mない浅瀬で10cmを越えるルアーをスズキが追跡してくるのが海中でもよく見える。スズキは冬は沿岸沿いの深場にいるが、春から秋にかけては汽水域(きすいいき)や浅瀬に移動する。宍道湖七珍(しんじこしっちん)の一つにも上げられ、奉書(ほうしょ)焼きは有名である。また「古事記」や「出雲風土記」にも取上げられており、平安貴族にも好まれた格式の高い魚である。
 ブリは沖合を回遊する大型魚なので漁業法が発達する江戸時代までは日本人にあまり知られずにいた。平安時代の記録にもほとんど登場しない。
 本朝食鑑(1697年)になると「官家では食さず、民家の食」「丹後の産を上品のものとし、越中の産がこれに次ぐ」とある。現代では能登ブリが有名だが江戸時代は丹後半島から若狭湾沿岸がブリの本場であった。今でも年の瀬になると京都の錦市場には天然ブリがずらりと並ぶ。この丹後でとれた塩ブリが大消費地の京都へ送られたことが出世魚の普及に拍車をかけた。
 京都は公家文化の発祥の地である。603年に聖徳太子が冠位十二階の制を定めて以来、奈良や京都は序列と階級を強く意識してきた。そこに新たに定着を始めたブリは成長と共に肩書きが変わることでますます持て囃されるようになったのである。
征夷大将軍源頼朝も宮廷から見たら蝦夷(えぞ)征伐の隊長の肩書きに過ぎない。秀吉は天下を握った後でも宮廷から関白・太閤の位を貰うことに腐心した。
 現代でも秋になると叙勲が行われる。若い頃「勲章なんて・・」と名誉より富や権力の方に価値を見出していた人でも加齢と共に勲章を欲しがり、最後に皇居に参上した時には「もったいなさに涙こぼるる」といった状態になるという。民族の背負った歴史や伝統と はそういうものであろうが、東京で稼いで億万長者になっただけでは満足せず、最後は冠(かんむり)が欲しいとなると、東京は京都が持つ歴史の重みに勝てないことになる。

*「冬」と「夏」〜ハマチは注文しないと回転寿司では食えません〜
 夏のボラは泥臭いと言われ脂の乗る冬が旬である。 一方、スズキは典型的な夏の魚で炎天下に麦藁(むぎわら)帽子でルアーを振るのに似合う。また涼しげで透明感のある白身は夏の寿司種としても一流である。どちらも汽水域や浅瀬に住むので古くから人に知られ、住む場所ごとに多様な呼び名が生まれた。
  ブリは冬の味である。神無月(かんなづき)(旧暦10月・霜無き月)が終わると日本海の空には稲妻が走り永い冬の訪れを告げる。やがて鉛色の重い雲に「ブリ起こし」と呼ばれる冬雷が鳴り雪がちらつき始める。寒ブリ漁の季節到来である。南の海から対馬海流に乗ってオホーツク沿岸まで回遊したブリが、産卵のための栄養を十分に蓄えて南下し富山湾に着く。身を切る冷たい海水の中でブリは急速に体内に脂肪分を増やすのである。
 一般的に旨味のある海産物は寒い海の方に多い。海水が実際に0℃以下になることはほとんどないが、冷血動物の魚類は水温低下と共に体が凍らぬ準備に体内の脂肪分や糖分を濃くする可能性はある。自動車の不凍液と同じである。
 氷温革命は1970年代に唱えられた考え方で、真水が凍る0℃と動物の体組織が凍る−3℃との間で魚や肉を保存すれば凍結による細胞破壊を起こさずに鮮度が保てるとの理論である。この温度帯を維持して湿度を100%近くに保つスペースを家庭用冷蔵庫内に作った のがチルドとかパーシャルとか呼ばれるものである。チルドやパーシャルにはもう一つ重要な機能がある。それは保存中に食品の糖度や旨味が増すことである。絞めたてのフグやエビの肉は単なる寒天で何の味もない。12時間ほど寝かせて初めて甘みや旨味が出る。牛肉だと半月寝かせなければ味がでない。肉屋で売っている生の牛肉は大抵が屠殺されてから10日ほど冷蔵庫に吊されていたものである。イースト菌を入れたパン生地などもチルド帯で12時間寝かすと甘みと旨味が出る。  野沢菜漬などでは昔から桶(おけ)の中にうっすらと氷が張った状態が最も旨味がでるコツと言われたが、これが文字通りチルド・氷温での熟成だったのである。同じことはキムチにも言える。
 食品は何でも鮮度が高い方がよいと信じている人がいるが、そんなことはない。食べ物には食べ頃があり、じっくり熟成させた後の方が美味しいことはよくある。人間と同じである。
 ブリはスズキ目アジ科の魚で世界に15種、日本近海には6種いると言われる。伊豆七島の三宅島などでよく釣れるヒラマサ、カンパチなどの高級魚はブリ属の仲間である。最近はヒラマサ、カンパチの養殖物も増えているが、両方とも脂が少ない夏に喜ばれる点がブ リと違う。
 ところで回転寿司ではどんなに待っていてもハマチは回ってこない。養殖ハマチは油脂分が多く劣化が早いので作り置きでは回さないのである。結局「ハマチ下さい」と大声で言えない人は照明の下を1時間近くも回ったタコや納豆巻きばかりを食べることになる。

*「西」と「東」 〜ブリ文化圏、サケ文化圏〜

 年末の年取り魚は地域により異なる。一部にはクジラ(長崎)、サメ(山陰)などの地域もあるが全体では西日本がブリ、東日本がサケで統一されている。年間の県別の家計消費量で見ても西と東では明確な差がでる。ブリはカムチャツカ沖でも捕れるが、基本的には黒潮と対島海流が流れる地域で捕れる暖流の魚である。年の瀬に富山湾で捕れた寒ブリは腹に荒塩を詰められ、こも包みにされ、歩荷(ほっか)と呼ばれる人々に担がれて飛騨高山に入る。そこから人の背の数倍の深さの雪に覆われた野麦峠や安房峠を越え、信州に入ったものは飛騨ブリと呼ばれ、江戸から明治時代初期にかけての信州の正月には無くてはならないものであった。当時の飛騨ブリは一本が米一俵の値段であったという。
 一方、サケが帰って来る川は信濃川と利根川が南限で、寒流の親潮が届く範囲である。これは東日本沿岸とほぼ一致する。これが西のブリ、東のサケを作った一番の理由であろう。

 日本は糸魚川と静岡を結ぶ図1のフォッサマグナ(Fossa Magna・東側の構造線は不明確とされる)で2つに分かれている。トンネルで西と東が結ばれてしまった現代では想像もつかないが、古代人にとっては南の「箱根」と北の「親不知子不知(おやしらずこしらず)」に代表される山岳地帯を越えるのは大変なことであったろう。西と東が別々の文化を持った時代が長くあったと考える方が自然である。
 東京や大阪の大都市を中心に物を考えたがる現代人は、日本中の文化や人種は一律と考えるが、意外に人や文化は混ざっていない。逆に言えば秋田や新潟の美人の里は未だ健在である。
 戦後しばらくは「狩猟中心の縄文文化が発展し、稲作中心の弥生文化になった」とする歴史観が中心であった。現代では縄文文化を担った人々と、弥生文化を担った人々は別のルーツとする考え方が主流である。

 法医学者の古畑種基(ふるはたたねもと・1891年〜1975年)によれば東日本にはB型の血液型が多く、西日本にはA型が多いという。戦後の25万人のサンプル調査では東には図2の蹄状紋が多く、西は渦状紋が多いことも確かめられた。近畿地方には短頭の人の割合が多いとの研究もある。さらに地理学者の鈴木秀夫(1932年〜) によれば東には水沢などの沢がつく川が多いのに対し、西には谷がつくものが多いという。
 年末の天然ブリにしても京都では頭を上にして縦に並べるが、東京の魚屋では頭を左にして横に並べるのが一般的である。しかし際立っているのは「日常の食習慣の違い」と、正月のように先祖返りをする場合の「伝統行事の違い」である。伝統行事は昔の習慣を再 現することであるから当然に東西の差が顕著になる。
 問題は日常の食習慣である。食生活は保守的であるからというのが一番受け入れやすい回答である。だが実は違う。「食は思想」なのである。「牛は食わない、豚は食う、立ったまま食わない、右手だけで食う、貰った物は食わない、人に恵んだ後でないと食わない」などと人は胃袋で考えている。
 関西のウナギは腹開きで蒸さずに焼く。関東は切腹を連想させる腹開きを武士が嫌ったと言われ、背開きで蒸してから焼く。すき焼も関西は肉を鍋で焼くが、関東は肉を煮る牛鍋に近い。これら食文化の違いは現代でも東日本と西日本の間に思考方法や精神風土の違 いが存在していることを表している。

 聖徳太子は厩戸(うまやど)皇子と言われ、醍醐天皇の醍醐は乳製品を、蘇我氏の蘇は練乳を表す。現在でも西日本に律令制を持込んだ人々は家畜に依存した生活をしていたのではないか思わせる現象は多い。例えば西日本の牛肉消費量は図3のように現在でも際立って高いのに対して、東日本では納豆の消費が多い。なお、家計調査で見る食の傾向は非常に保守的で20〜30年ではほとんど変化しないので今回は1994年の数値を使用している。

 図4は関西は食パンの消費が多く、関東は調理パンの消費が多いことを示す。兵庫の朝食はパンが多い。奈良の朝粥(かゆ)は有名である。朝が忙しい昔の商家では夕方に飯を炊き、丁稚達の朝食は前夜の飯で作る粥で済ませたという。
 この「朝に飯を炊かない」習慣がそのまま残り、兵庫は貿易港の関係で粥が食パンに変わったのである。
 これは西が商業活動の風土や気風を色濃く残したことを示している。東日本で納豆と調理パンの消費が高いのは、東日本には「朝に飯を炊き」昼は田畑にむすびを持参という農耕型生活スタイルが現在でもそのまま残っており、炊き立ての朝飯に合う納豆と、昼に野良で食ったむすびの現代版である調理パンの消費量が多いのである。
                            [出世魚(ぶり)後編に続く]
                    
全国中央市場水産卸協会『全水卸』2003. 1 より)

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