エカテリーナ宮殿と聖イサク寺院

− 2011.04.17(日) −

 “黄金の環”を中心とした世界文化遺産巡り、モスクワ(4/12-13)、スーズダリ(4/14)、サンクトペテルブルグ(4/15-17)と同じ都市での宿泊が重なります。
エカテリーナ宮殿
 身軽な旅で良いのですが、撮影日で順を追っているものの何処が何時で如何だったのか編集に苦慮しました。そんなことで自信のないところもあります。
エカテリーナ宮殿の煌びやかな部屋
 本日は、まずプーシキンのエカテリーナ宮殿を見学してからサンクト・ペテルブルグに戻り聖イサク寺院と市内観光、夜はオペラ鑑賞になります。
エカテリーナ宮殿の煌びやかな部屋 エカテリーナ宮殿 食堂
 煌びやかな部屋が幾つもあるエカテリーナ宮殿は、ピョードル大帝が妃エカテリーナのために建てたもの。青い塗装が涼やかで300mに及ぶ外壁、5つの黄金ドームに有名な“琥珀の間”等々。
 その“琥珀の間”は全部が琥珀・・・・。前代未聞の豪華な部屋、独軍に持ち去られて以来、財宝は行方不明。2003年に再現が完了、その費用とて信じられない。
エカテリーナ宮殿 琥珀の間 ニコライ2世の写真
 時代は前後するが、そのドイツから嫁いできたエカテリーナ2世。家庭的には恵まれなかった少女、非凡な才能と行動力で女帝となる。
プーシキンからサンクト・ペテルブルグへ イサク聖堂
 晩年のエカテリーナは、農奴制を強化し“貴族帝国”を完成し“大帝”という称号を献じられるに至る。情の多さでも知られる。
イサク聖堂入口の円柱 円柱を立てる際に使った操置の模型
 プーシキンからサンクト・ペテルブルクに戻り市内観光。(2つ上の写真より)海岸通りに一際高く金色のドームが輝く帝政ロシアのシンボルが“イサク聖堂”だ。
 正面の石柱は48本、直径1.8m高さ17m重さ114トン。ドームの周囲は展望台になっている。その展望台には約300段の狭い螺旋階段、途中に休む場所がないので1・2とひたすら登る。
 1710年にピョートル大帝によって建てられたのは木造教会。ビザンチンの修道士であった聖イサクより名をつけた。以降、1717年、1790年に建替えられ現在は4代目。
 その4代目にあたる現在の聖堂は1819年に始まり完成まで40年の歳月が費やされた。この間アレクサンドル1世、ニコライ1世、アレクサンドル2世が携わった。
ドームの展望台に続く約300段の階段 展望台に続く内部の螺旋階段
 展望台からは街並みが一望できる。聖堂はレンガ造り、外壁は花崗岩、内壁は大理石、ステンドグラスは“キリストの復活”を描いたもの。
イサク聖堂の展望台
高さ60mの展望台からの眺め キリストの復活を描いたステンドグラス
 内部の絵は著名な画家によって描かれている。中でも有名なのは中央真上の丸屋根部分に描かれたカルロス・ブルュロフ作の“聖母マリアの栄誉”であろう。
 右上の“キリスト復活”はミュンヘンの王立工房で作られたステンドグラスで見事なものである。
 イサク聖堂を後にしバスで市内観光をしながら皇帝アレクサンドル2世のメモリアル“血の上の救世主教会”に向かいます。
 血の上の救世主教会は1881年に皇帝アレクサンドル2世が革命を唱える急進的テロによって暗殺された場所の上に息子2世が建てたものです。
 ピョードル大帝を称えるプーシキンの詩“青銅の騎士”像はデカプリスト広場にエカテリーナ2世によって建てられた。
青銅の騎士像 ペトロパヴロフスク要塞(うさぎ島)
 バスの車窓からサンクトペテルブルグ発祥の地となったペトロパヴロフスク要塞を眺めることができた。
皇帝アレクサンドル2世が暗殺された場所の上
純ロシア風教会“血の上の救世主教会” アルフレッド・パルラントの像
 アルフレッド・パルラントは“血の上の救世主教会”の設計者。父を思う息子2世の思いが現れ、その像の飾りは全て本物の宝石。
 内部のモザイクの下絵は有名な画家達の手で描かれている。これで大凡のロシア旅行が終わります。明日の市内観光はショッピングが中心です。
挿入歌 灯   
出国 モスクワ ウラジーミル セルギエフ ペトロゴフ プーシキン サンクトペテルブルグ 後記