聖者の舞台に刻まれたアラブの春 |
- 2014.4.9 (水) - |
- 複雑な問題を抱える二つの世界遺産 - 世界遺産エルサレムと世界遺産ベツレヘム |
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ヨルダン・イスラエルの旅、最終日に二つの世界遺産を見学します。とても複雑な問題を抱える世界遺産ゆえ、どうまとめて良いものか悩みました。便宜上「イスラエルの旅」に含めていますが、タイトルは「聖者の舞台に刻まれたアラブの春」と、将来に向けた繁栄を望む意味を込め入れ替えました。 外務省の「中東和平についての日本の立場」を何度も読み返すも、非常に難しく私の理解力では何ともし難く「世界遺産」の当事国については触れず「地名」にて記載するに留めます。差し障りがある記述等ございましたら、ご理解の上お許し願います。 |
- 世界遺産エルサレム - エルサレムの旧市街とその城壁群 |
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周辺情勢の不安定さから保護が急務、かつエルサレムの帰属問題等複雑な問題がはらんでいることから、ヨルダンによる申請という変則的な手続きが認められた珍しいケースの世界文化遺産です。 | ||
- オリーブ山 - | ||
「オリーブ山」は海抜800mほどの丘で、「エルサレム旧市街」は数10m下がった所にある。古くからオリーブ畑になっていたのでこの名で呼ばれる。その「エルサレム」には、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の3大宗教の聖地があり、古代からさまざまな物語の舞台になったり、紛争の原因になってきました。 | ||
エルサレム オリーブ山 主の涙の教会 ゲッセマネの園 神殿の丘 岩のドーム アル=アクサー・モスク 嘆きの壁 シオンの丘 最後の晩餐の部屋 ダビデの墓 マリア永眠教会 鶏鳴教会 ヴィア・ドロローサ 聖墳墓教会 |
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オリーブ山から眺める「エルサレムの旧市街」の全景 | ||
「ユダヤ教」のシンボルとなる神殿があった場所は、土台だけがかろうじて残る「嘆きの壁」で、ユダヤ教徒が一心に神に祈りを捧げる「嘆きの壁」こそユダヤ教最大の聖地と言われています。 | ||
「キリスト教」のシンボルとなる場所は、「嘆きの壁」から北西500m、イエス・キリストが十字架に架けられ処刑された場所で、キリスト教最大の聖地「聖墳墓教会」が建っています。キリスト教徒はイエスが十字架を背負って歩いた「悲しみの道」(ビア・ドロローサ)を辿ります。 | ||
「イスラム教」のシンボルは、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」の上、かつてのユダヤ教神殿跡地に「岩のドーム」(モスク)が建ち第3の聖地として崇められています。 |
- 主の涙の教会 - | ||
イエス・キリストがオリーブ山からの帰途、エルサレムを眺め、その滅亡を予言し涙したと言われています(ルカの福音書)。この教会は1955年に建てられたものです。 | ||
- ゲッセマネの園 - | ||
福音書では、イエスと弟子たちが「最後の晩餐」の後に祈りを捧げ、またイエスがイスカリオテのユダ(十二使途の一人)に裏切られ捕えられた場所とされる。 | ||
正教会では、「聖母マリア」が埋葬された場所としている。古代から教会があった場所で、現在はカトリックの「万国民の教会」、隣接地にロシア正教会の「マリア・マグダリナ教会」が建てられている。 |
- 岩のドーム(神殿の丘) - | ||
「岩のドーム」は、イスラム教の第3の聖地である「神殿の丘」と呼ばれる聖域にある神殿です。「神殿の丘」は紀元前2000年頃に発生したと言われるイスラム教とユダヤ教、紀元後にユダヤ教から派生したキリスト教、更に紀元後700年に派生したイスラム教という宗教が、その存続をかけて争い続けている地で、現在は「嘆きの壁」(ユダヤ教)以外はイスラム教徒によって統治されている。 | ||
この「岩のドーム」(金のドーム)は、イスラム教の開祖であるムハンマドが天使ガブリエルに導かれて昇天した時に残された足跡のついた「聖なる岩」(ユダヤ教もキリスト教も重要視する岩)を祀って(囲って)いる記念堂です。 |
- アル=アクサー・モスク(神殿の丘) - | ||
「神殿の丘」(ハラム・アッシャリーフ)の上に、「銀のドーム」(アル=アクサー・モスク)があります。「アル=アクサー・モスク」は「遠隔の礼拝堂」を意味し、「聖地」の一つとして崇められています。原型は14世紀半ばに建設され、20世紀前半に改築された。) | ||
- 嘆きの壁(神殿の丘) - | ||
紀元前20年、ヘロデ大王が改築・拡張(紀元前70年のローマ帝国とローマのユダヤ属州に住むユダヤ人との間の戦いで残ったのが西側外壁のみ)したエルサレム神殿(歴史は長く紀元前10世紀にソロモン王が建設したソロモン神殿が起源)を取り巻いていた外壁の西側部分で、ユダヤ人にとって魂の故郷ともいえる聖地です。 4世紀になって、1年に1日(ヘロデ神殿崩壊の日)だけ立ち入りが許されるようになり、ユダヤの人々は失われたエルサレム神殿を悲しんで祈るために「嘆きの壁」と名付け祖国の復興を祈ったのが始まりです。 |
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写真でも見分けがつく下半層がヘロデ時代のもの、その上の下半分がローマ・ビザンチン時代のもの、最上層はアラブ(マルムーク)時代のものと言われているようです。向かって左が男性用、右が女性用の祈りの場、「嘆きの壁」の部分は55mほど、残された壁の全長は485m、壁の最下部に黒ずんで見える1mほどの層は1967年の六日戦争に勝利したイスラエルが地面を掘り下げたとのことです。 |
- 最後の晩餐の部屋/ダビデの墓 - | ||
イエス・キリストが捕えられる前夜に弟子たちと食事をした「最後の晩餐の部屋」は2階で、その下の1階に「タビデの墓」があります。「ダビデの墓」は撮影禁止、外部の「ダビデの像」を撮影しました。 | ||
タビデは「イスラエル建国の父」と言われている古代イスラエル2代目の王です。ダビデ王の統治下、エルサレムを征服しイスラエルの首都にしました。1階がダビデ王の墓で、2階がイエス・キリスト最後の晩餐の部屋、何か歴史博物館のように思えてなりません。 |
- マリア永眠教会 - | ||
「シオンの丘」にあるエルサレム最大の教会。聖母マリアを祀るロマネスク様式の教会で1910年の建造。「シオンの丘」は、第二神殿時代に祭司や貴族が多く住んでいたところ、「オリーブ山」は見晴らしがよく山腹にはダビデ王の時代からユダヤ人の墓地等があったところ。 | ||
エルサレム旧市街の東側の「オリーブ山」、そして南西側の「シオンの丘」(標高765m)。「シオンの丘」はダビデ王が祭壇を築いて以来「聖なる山」となりエルサレムの象徴にもなっている。ここには、「ダビデの墓」「最後の晩餐の部屋」「マリア永眠教会」「鶏鳴教会」等がある。 |
- 鶏鳴教会 - | ||
ユダの裏切りによって捕えられたイエスが夜を明かした牢獄があった場所とされる。ユダヤ太守ピラトがイエスについてペテロに訊ねたとき、「知らない」と二度否認、三度目の時に鶏が鳴いたという。(新約聖書) | ||
・・・・と言う衝撃的なエピソードの舞台が「鶏鳴教会」。像は太守の女中の一人が「あなたもイエスと一緒だった」と告げ、ペテロが「何のことかわからない」と否定、イエスから「鶏が鳴く前に三度私を知らない」と言いなさいと言ったことを思い出した。その状況を表した像がありました。 |
- ヴィア・ドロローサ - | |||
旧市街北東にある「エッケホモ教会」から「聖墳墓教会」とを結ぶ曲がりくねった小道(約1000m)は「ヴィア・ドロローサ」(悲しみの道)と呼ばれている。これは、イエスがビトラ邸のあったアントニアの要塞で死刑判決を受け、十字架を担いで処刑場のゴルゴタの丘まで歩いた。そのルートが「ヴィア・ドロローサ」、その時のイエスにまつわる出来事を記念した14ステーションが設けられている。 | |||
「ヴィア・ドロローサ」には1~9ステーション、10~14ステーションは「聖墳墓教会」内に設けられている。最後の8枚目が「聖墳墓教会」内にある12ステーション「イエス、十字架上で息を引き取る」である。 |
- 聖墳墓教会 - | ||
「聖墳墓教会」内は暗く撮影に適していない。ある部屋の壁に飾ってあったものを撮影した7枚を合成した。 | ||
- 世界遺産ベツレヘム - イエス生誕の地;ベツレヘムの聖誕教会と巡礼路 |
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「ベツレヘム」は、「エルサレム」に隣接するヨルダン川西岸地区の都市で、ヘブライ語聖書では「ダビデの町」、新約聖書では「イエスの生誕地」とされている。 | ||
聖母マリアが救世主イエスを産んだ伝説の地に建つ「聖誕教会」(降誕教会)は、1700年の歴史を誇る世界最古の教会の一つ、通常の登録プロセスを経ず「緊急保護を要す物件」として、2012年に「パレスチナ自治区」の「世界遺産」に登録。 | ||
ヨセフとマリアはガリラヤのナザレに住んでいた。マリアが出産のお告げを受け故郷のベツレヘムに戻った。宿がとれず「飼葉桶の中で誕生したのがイエス」であった。 | ||
コンスタンティヌス1世の時代に、イエスが生まれたと伝承される洞穴の上に聖堂の建設が始められ339年に完成した。 | ||
6世紀に火災で焼失、モザイクの床がわずかに現存する。再建はユスティニアヌス1世の時代に行われ、基本的にはその形態が受け継がれてきている。 | ||
イエス・キリストは、生誕が「ヘツレヘム」でも、両親のヨセフとマリアの家は「ナザレ」にあり、幼少期から大人になるまで「ナザレ」で暮らしていたので一般的には「ナザレ出身者」と見做されていた。 | ||
この後、エルサレムに戻り一泊、翌朝65km離れたテルアビブに移動、空路イスタンブールで乗り継ぎ帰国。「さよならヨルダン」「さよならイスラエル」「さよならパレスチナ」・・・・ありがとうございました。また、ご覧頂きありがとうございました。 末筆になりましたが、参考にさせて頂いたWeb管理者の皆様にお礼申し上げます。 |
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